朱子学批判

454 ~ 456 / 765ページ
そして興味深いことに、乳井は、武士社会にこのような臆病卑屈な風潮を蔓延(まんえん)させた元凶が、自分一己の「心」を安んずることに専念して、「治乱済度ノ為ニ己ヲ捨ル意地」を喪失した「朱子ガ腰抜ケ学問」にあるとして、朱子学の「心法」論を批判している。心は外的な事物とのアクティブな交渉を通して自ずと錬成されるべきであって、自己完結的にひたすら内面へと沈潜し、「心ヲ以テ心ヲ工夫シ」てみたところで、それは「水ニ水ヲ入テ水ヲ分ケ」るようなもので、とりとめもない。「心法ノ学」とは、弓矢を射ることにたとえてみれば、まず何よりも「射ルコトヲ日々ニ修シ」て、その結果い心の境地に至るはずであるのに、その逆で心のい境地に至ってその後で弓を射ようとするのと同じで不毛である、という。
 乳井によれば、儒教とは元来天下国家を統治するための学であって、個々人の道徳的な心の在り方や、善し悪しにかかわる学問ではなかった。次の一文は徂徠の口吻(こうふん)そのものである。
先王ノ経済ヲ棄テ国家ノ急ヲ救ハズ、日夜心上理学ニ修行ヲ委ヌルトキハ、桀紂(けっちゅう)ノ不仁ヲ学ブ者也。

 朱子学に政治論がなかったかといえば、事実はそうではない。『大学』の八条目にあるように、朱子学の最終課題は「治国・平天下」にあった。しかし朱子学では個々人の道徳的自己完成(「修身」)が実現すれば自ずと国家の統治(「治国・平天下」)も実現すると考えられ、「修身」が「治国・平天下」に先立つ実践課題とされる。乳井は、朱子学のこの考え方こそが目前の経済的政治的課題から身をそらし、事を先送りにする恰好の逃げ口上になっているとみて、その点を厳しく衝(つ)くのである。
 朱子学が本来「腰抜ケ学問」か否かは大いに議論の余地を残そう。しかし少なくとも乳井は、朱子学の論理のうちに「学問」と「現実」との乖離(かいり)をみてとった。そして学問の形式的な享受を拒否し、絶えずそれを現実に関連させていこうとした。この意味で乳井が宝暦改革に臨んだ姿は、まさしく彼の学問的思想的立場からの必然的帰結であり、また逆にそういった学問的思想的立場を、藩政改革という現実の政治体験によって再確認し、固めていったのである。
 以上のような乳井の考え方に徂徠学からの影響をみて取ることができる。彼は徂徠・春台の名を挙げてこう述べている。
熟々(つらつら)先聖(せんせい)没後三千余歳ノ間ヲ観ルニ、聖人ヲ知ル者、異朝ニハ孟子・荘子ノ両氏ノミ。吾ガ朝ニハ素行子・徂徠子・太宰純ノ三子ノミ。

 徂徠の経世済民の学としての儒学は、本州最北端の地津軽の一武士の政治意識を呼び覚まし、その行動の内にも深く根をおろしていたのである。