津軽領の四大凶作といわれるのは、元禄・宝暦・天明・天保年間の冷害による凶作であるが、多くの餓死者を出す惨状を呈したのは、元禄八年(一六九五)・天明三年(一七八三)・天保四年(一八三三)の凶作においてであった。この時には城下周辺の民が、飢えをしのぐために乞食や非人となって城下に入りこんできたのである。
これに対して、藩では施行小屋(せぎょうごや)を設置して救済措置をとったが、他藩領からの飢人は人返しが原則であった。そのほか山野を薪山(たきぎやま)として開放したり、お救い米を給与したり、あるいは酒造を禁止ないし制限する令を出して米穀の確保を図ったりした(長谷川成一他『青森県の歴史』二〇〇〇年 山川出版社刊)。
このような凶作・飢饉による下層民の城下への滞留の状況について、天明期を中心にその様子をみると次のようになる。