天明三年の大
凶作による
飢饉の様子を概観すると、
城下では毎日七、八人ないし一〇人の餓死者がたちまち数百人となり、一丈(約三・三メートル)四方の穴を七ヵ所掘って葬っている。一方、食物を求めて他領へ脱出を図る者が続出したので、それを阻止するために、野内(のない)(現
青森市野内)・
碇ヶ関(現南津軽郡
碇ヶ関村)・
大間越(おおまごし)(現西津軽郡岩崎村)の
関所では厳重な取り締まりを行っていた(「
国日記」天明三年八月二十四日条)。しかし、脱出者は八月中旬より十一月末までに一万人余に上ったが、一〇分の一は途中で力尽きて引き返し倒死した。九月より翌四年六月までの死亡者総数は八万一〇〇〇人余といわれるから、領内人口の約三分の一が死亡したことになる。
津軽領内における飢餓の実態については、天明三年十月の「
国日記」に、
城下および農村での倒死が最も多く記されている。「
国日記」によれば、特に
城下では飢えた
農民や町民が、こみせ(現代のアーケードのような屋根つきの歩道)や橋の下に倒死体として放置されており、それを飢えた犬が食い散らしているのは、地獄絵をみるような異様な光景であったであろう。
図14.飢饉の惨状