南溜池の成立

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津軽一統志」によれば、南溜池は千葉喜右衛門を奉行として慶長十九年(一六一四)六月朔日から二〇日を限り人夫一万人をもって池を掘らせ、土手を築かせたものであるという(資料近世1No.三二〇~三二三)。成立年については、各史料によってまちまちであり、たとえば『平山日記』は、慶長十七年(一六一二)十二月もしくは翌慶長十八年正月から南溜池の普請に入ったという。また『津軽歴代記類』上には、慶長十八年正月朔日から南溜池の普請工事に着工したと記述している。いずれにしても、慶長十七年から同十九年にかけての時期に、南溜池の開鑿(かいさく)と土手の築造がなされたとみて差し支えないであろう。
 このように慶長末年にほば完成したと推定される南溜池は、正保二年「津軽弘前城之絵図」(国立公文書館内閣文庫蔵)によれば、同絵図中に「ため池」と記され、その規模は南北に延びる堤が九二間(一六五・六メートル)、東側寄りの方の深さが七尺から八尺(二・一~二・四メートル)、池の東西の長さが三〇〇間(五四〇メートル)、西側の深さが三尺から四尺(〇・九~一・二メートル)であった。池の底は西側から東側に傾斜した形をとり、東側の堤土手付近が最も深かったようである。

図36.正保2年「津軽弘前城之絵図」南溜池部分

 慶安二年(一六四九)五月の寺町大火によって、現在の元寺町にあった寺院浄土宗五、法華宗三、門徒寺六、天台寺一が焼亡し、翌三年に寺町の寺院を新たに南溜池の南側に移転させ、この町割りを新寺町と称したという(資料近世1No.七一三~七一六)。同三年には新寺町の町割りとともに新たに南溜池に橋が架けられ、万治二年「弘前古絵図」(弘図津)には、在府(ざいふ)町と新寺町を結ぶ通路として西側在府町寄りに橋が描かれている。また茂森(しげもり)町と新寺町を連絡するためにも南溜池西のはずれに橋が架けられており、南溜池を挟んで北側の町方と南側の新寺町が連絡され、東側の部分を一部除いて南溜池は城下の町並みの中に取り込まれたのであった。溜池東側の変化は乏しく、わずかに大円坊(だいえんぼう)の南側放水路を隔てた地域に銅屋(どうや)町と銅屋派町が町割りされており、大円坊の北側、土手の東は依然として田地であった。