鳥羽・伏見の戦い

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明治元年(一八六八)一月三日夕刻、下鳥羽赤池(現京都市南区・伏見区境)付近で、砲弾の音が鳴り響いた。この日、京都南郊で始まった鳥羽・伏見の戦いは、やがて上野戦争・北越(ほくえつ)戦争・東北戦争・箱館戦争と続く旧幕府勢力と新政府派勢力との戦い、つまり、戊辰戦争の幕開けであった。

図44.鳥羽・伏見戦争周辺地図

 大坂城にいる徳川慶喜を中心とした旧幕府軍は行動を開始した。一月二日朝、「討薩表」を携えた幕府大目付滝川具挙(たきがわともたか)が先鋒となって北上した幕府軍は、伏見・淀(よど)近辺に宿営をする。この時、以前から駐留していた幕府勢力を合わせるとその数は約一万人に上り、さらに大坂守衛の兵も合わせると一万五〇〇〇人余りとなった。三日、入京を目指して北上する幕府軍とそれを阻止する薩摩藩の軍勢との押し合いが続き、ついに強行前進を決めた旧幕府軍に対して薩摩の砲が火を吹いたのであった。この日、鳥羽・伏見で薩摩・長州軍四〇〇〇人余りと衝突した旧幕府軍は、数では圧倒的な優位を誇っていたが、火器で劣り、さらに大混乱を引き起こし、次々と諸藩が離反していく結果となり、敗北を喫することになる。六日夜、徳川慶喜は密かに大坂城を脱出して海路で江戸を目指し、旧幕府軍は解していった。