幕府・朝廷の攻防

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鳥羽・伏見戦争に勝利した新政府は、この戦争を仕掛けたのは旧幕府軍であり、徳川慶喜朝廷への「反状」は明白であるとして、朝敵として慶喜を追討することを布告した。そして、各藩に対し、藩内の意志統一を図り、新政府への賛同を促したのである(『復古記』第一巻)。
 こうして新政府側は公式に見解を表明し、続いて諸侯へ国力相応の人数を率いての上京を命じる一方で、徳川慶喜を筆頭に会津(あいづ)藩松平容保(まつだいらかたもり)、桑名(くわな)藩松平定敬(まつだいらさだたか)ら朝敵となった諸大名の官位を剥脱した。
 津軽弘前藩に対しては、十一日に京都において留守居役が呼び出され、朝廷から上京を促す達書(『弘前藩記事』一)が渡されている。これは、率兵上京を促すものであったが、それ以上に一刻も早く朝廷側へ与同することを目的とするものであった。さらに一月十五日、朝廷よりの官軍協力命令(資料近世2No.五〇七)が東北諸藩に向けて出された。それは、徳川慶喜反逆につき、その追討のため、東海・東山・北陸三道を「官軍」が進発することを告げ、応援協力を求めるものであった。
 一方、旧幕府側から出兵命令が出されたのは、一月十日のことである。その内容は、伏見付近において戦争が起こったということなので、兵を引き連れ早々に出府するようにというものであった(『弘前藩記事』一)。また、旧幕府側の公式見解(同前)が十一日に出され、二十三日には弘前へ達せられたが、これは新政府側の見解とは正反対のものであった。
 つまり、旧幕府側の見解によると、上洛の内諭があったので上京したところ、新政府軍が待ち伏せをしたうえ、発砲をして兵端を開いたとしている。そして旧幕府勢に朝敵の名を負わせ、他藩を扇動したにもかかわらず、新政府側には戦利がなかったが、徳川慶喜の深い見込みもあって、兵を引き揚げ、東帰したというように鳥羽・伏見戦争の情況を説明した。そのうえで、「国家」のために忠節を誓うように求めたのであった。