三月二十日になって、弘前藩は、秋田・仙台両藩へ家老西館宇膳(にしだてうぜん)・副使用人楠美荘司(ようにんくすみしょうじ)を答礼使として派遣した。各使節の来弘を受けた弘前藩にとって、少しでも多くの情報を得るべく、両藩と同様に諸藩の藩情についての打診や今後の対応策の協議等を果たすことが重要な課題・目的であった。
また、秋田藩からの打診に対しては、同日に「言うまでもなく『皇国』のためになるよう尽力したい」と、具体的な行動内容を避けた返答をした(『弘前藩記事』一)。
その後、両名は仙台藩へ向かい、三月二十五日に同藩に対して、先日の使者への返答のとおり戦争の阻止に賛同するとしたうえで、親征が公式に発表された以上、両者の摩擦で生じる不都合を避け、慎重に行動するように申し進めたのであった。ただ、弘前藩の意見は仙台藩が提出した先日の建白書にみえるような明確な批判的意見の表明までは言及していないが、決して止戦という方法については悲観的ではなく、逆に、請願書を提出することにより、和平的解決が望めるのではないかというものだった。
したがって、この段階では、弘前藩は秋田藩よりも仙台藩の申し出に対して積極的な姿勢を示していることがうかがえよう。仙台藩使者がより具体的な情報と方策を持って訪れたこともあるが、自藩のためにも和平策による事態の解決を望んだのであった。そのためには仙台藩の戦争回避の建白は有効にみえたのである。
しかし、全体としては、弘前藩の感じていた危惧のほうが現実的になりつつあった。弘前藩が返答をした二十五日には、仙台・米沢両藩代表が会津若松で会津藩救済について相談の場を設けていたが、三月二十八日、弘前藩は、仙台藩使者堀省治から、松島湾へ三月初旬に鎮撫総督軍が到着し、事態が急迫してきた模様を伝えられた。仙台藩は新政府から会津征討を催促されており、和平策を模索しつつも、違勅を避けるために出兵するという知らせを受け取ったのである。そして、この時堀省治から同時に、建白書提出の失敗と再度別途の建白書を提出することなども知らされた。
新たに提出された建白書は、恭順謹慎の意を示している徳川慶喜らに対して、武力を発動せず、公平な評議によって寛大な処置を示すように嘆願する内容であった。これは先の建白書とは違い、婉曲的な表現に変化していた。
弘前藩は、早速、この応対の模様を仙台滞在中の同藩使者一行へ報じている。その中では、前回知らされた仙台藩の目指す内容とは違った局面展開が生じてきたが、依然仙台藩使者が伝える方向性に賛同を示しており、これは、三月二十九日付の用人北原蔵人から副使楠美荘司への書翰でも同様である(同前)。大藩仙台藩の意向に同調するのみではあったが、弘前藩としてはなんとかして、戦争に巻き込まれていくことは回避したい思いであった。