前述のように、野辺地戦争は、弘前藩の惨敗であった。盛岡藩の降伏が決定された段階でしかけた戦争は、一見、無意味なようにも思われる。しかし、この野辺地戦争は、弘前藩にとって、必要不可欠の戦いだったといえるのである。勝敗は結果だが、それよりも、弘前藩としては盛岡藩に討ち入ったという事実が必要だったのであった。藩論を決定するに至るまでも、弘前藩は決して戦いを望んでいたわけではなかった。「勤皇」側に立っての功名心というよりは、むしろ、政府から受ける度重なる疑念を払拭するための、自らの存続をかけた苦渋の策であったとみるべきであろう。
盛岡藩は、野辺地戦争に勝利したものの、秋田藩を通じて嘆願交渉を続行し、九月二十五日、秋田水沢口において正式に謝罪降伏状を提出するとともに解兵した。これを受けた奥羽鎮撫総督府は、これを受領し、同時に止戦・解兵命令を出した(資料近世2No.五五一)。十月五日、盛岡城は開城。城の受け取りには、秋田藩と弘前藩が赴いている。盛岡藩は、秋田戦争・野辺地戦争の代価として、家老楢山佐渡の切腹と七万両の賠償を支払うことになった。
こうして、東北地方一帯が鎮静化し、弘前に本陣を置いていた奥羽鎮撫総督参謀醍醐忠敬も引き揚げを開始した。残存兵の抵抗が鎮圧されるのも時間の問題かとみえた。そして、十月十七日、奥羽平定と解兵帰国が通知された(『弘前藩記事』一)。
列藩同盟諸藩の降伏による東北戦争の終結を受けて「家内年表」(『青森市史』)には「人気大ニ落着静謐ニ相成候」と様子が記されている。また、続々と解兵が続いていることもあり、東北戊辰戦争の終結は、一時的にしろ平和の到来を予感させるものであった。