十一日未明、有川・七重方面から三手に分かれて進軍をはじめた政府陸軍は旧幕府軍の必死の防御に遭いながらも、山側を進んだ福山・岡山藩等の諸隊が、五稜郭の北備えとして築かれた四稜郭を落とした。弘前藩からも大砲隊司令士神豊三郎(じんとよさぶろう)隊が臼砲(きゅうほう)一門をもって福山藩の応援に加わった。また、対馬官左衛門・喜多村彌平治(きたむらやへいじ)一中隊が上山村(現北海道函館市)へと分進して長州藩砲隊の応援に加わった。
中央から桔梗野(ききょうの)へ向かった長州・薩摩・松前・弘前藩等の諸隊は左右へ布陣し攻撃を開始したが、激しく銃撃を浴び、苦戦の状況であった。しかし、決死の覚悟で白兵戦に持ち込み、多くの死傷者を出しながら、とうとうここを突破し、亀田村で海岸道を進む政府軍と合流した。
この時の戦いでは弘前藩の損害は小隊司令士高杉左膳(さぜん)をはじめ討死七人、重軽傷者一一人を数えた。
さらに箱館方面へ探索の軍勢が出ると、弘前藩の旧陣屋から旧幕府軍の攻撃があり、弘前藩は長州藩の応援を得て反撃を加えたが、この時にも一人の戦死者を出してしまった。
一方、海軍も陸上の政府軍の進攻に足並みをそろえ、朝陽と丁卯が七重浜沖へ向い、甲鉄・春日は輸送船箱館攻撃部隊を乗せた豊安・弁天台場(べんてんだいば)攻撃部隊(弘前藩兵を含む)を乗せた飛龍とともに弁天台場を目指し、陽春が箱館への攻撃のため大森浜へと針路をとった。
このとき、対する旧幕府海軍は、既に千代田形を座礁させて失い、また五月七日、回天も機関を攻撃され、軍艦としての機能を停止したために単なる台場と化していた。すなわち旧幕府勢に残る軍艦は蟠龍のみであった。
蟠龍は七重浜へ向い、加えた攻撃の一弾が政府軍艦朝陽の火薬庫へ命中して同艦を沈没させた。一時はこれにより旧幕府軍の勢いが盛り返したが、青森から延年も到着し、丁卯とともに蟠龍を追い、同艦を弁天台場付近の浅瀬に追い込んだ。また甲鉄とともに乗り込んだ奇襲部隊も箱館を占拠し、浮台場となって砲撃を続ける回天を陽春とともに攻撃したため、とうとう回天・蟠龍ともに火がかけられ、ここに旧幕府海軍は全滅した。
しかし、箱館市中が戦場となったため、死傷者も続出し、住民等の被害も大きく、およそ八七〇戸が焼け出されたという。残るは五稜郭・千代ヶ岱(ちよがだい)・弁天砲台ばかりであった。