安政の開港と幕末の流通については、すでに通史編2第四章第五節で詳述したが、藩や民間では旺盛(おうせい)な交易意欲があったことが明らかにされている。すなわち、安政二年(一八五五)三月に箱館開港に対処するため、幕府は蝦夷地を上知し、箱館奉行を設置するとともに、その警衛を弘前・盛岡・秋田・仙台の東北諸藩と松前藩にゆだねた。それと同時に青森の廻船問屋滝屋(伊東)善五郎や藤林源右衛門は箱館奉行所の御用達(ごようたし)に任命され、蝦夷地で警備兵が消費する米や味噌を都合するという形で交易活動は進んでいった。その後、安政六年に蝦夷地が松前藩および東北六藩の分領支配とされると、蝦夷地警備を媒体(ばいたい)とする交易の傾向はさらに強まり、滝屋・藤林は米・味噌のほかにも醤油・卵・酒・梅干・大豆・小豆などの食料品や、菜種油や網・縄・筵(むしろ)類などの生活用品や漁業用品も扱うようになった。また、翌年には昆布を領内の三厩(みんまや)から買い付け、箱館を経由して売り出そうという計画が両名によって藩に申請された。加えて、藩も慶応二年(一八六六)十二月に、領内に藁製品の統制令を発布し、蝦夷地の俵物の俵や漁具の独占を図ろうとした。このもくろみは結果的に失敗に終わったが、藩当局が交易を主体的に行おうとした点は注目されよう。