(二)食事

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 将軍の平常食は午前八時ころから始められ、一汁に煮物(にもの)と焼肴(やきざかな)の二菜という質素なものであった。諸藩においても大名の食膳は徳川家に倣っている(渡辺実『日本食生活史』一九六四年 吉川弘文館刊)。
 津軽弘前藩では、日常の藩主の食事は弘前城本丸御殿の台所や料理の間で作られ、膳番藩主の食べる朝・昼・暮の食膳、そのほかすべて藩主に差し出す飲食物を検査した(小館衷三『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』一九七三年 津軽書房刊、工藤主善「旧藩官制」国史津)。
 一日の食事回数については、元禄(一六八八~一七〇四)期には和食が完成し、三度食が普及した(前掲『日本食生活史』)。
 歴代藩主の食事の実態については知ることが出来ないが、信明の「在国日記」天明四年十二月、同五年正月、寛政二年(一七九〇)十二月(資料近世2No.一九九)によれば、食事をとった時間が記されている。それをまとめてみると、朝飯は午前九時から十時ころ、夕飯(昼食のこと)は午後二時~二時過ぎ、夜食(夕食のこと)は午後七時~七時過ぎまでであった。しかし、具体的な献立は記されておらず不明である。
 ただし、襲封直後の記録によって朝飯は一汁一菜、夕飯は平椀(ひらわん)(平椀に盛った料理)もしくは焼物一種、夜は湯漬けに香物(こうのもの)(野菜を塩・糠味噌(ぬかみそ)などに漬けた食品)・猪口物(ちょこもの)(小丼で刺身(さしみ)や酢のものなどを盛る小さな器)一品ということが知られる(前掲『津軽藩政時代に於ける生活と宗教』)。これは天明の大飢饉の時でもあり、かなり質素倹約に努めた食事であったといえよう。

図85.大名の膳

 藩主の公式の場合におけるものと思われる献立と、お膳を出す順序が記された宝暦期(一七五一~六四)のものと推定される記録がある。二汁五菜・二汁七菜・三汁九菜の三種類があるが、「二汁五菜御膳組并出順」(「献立書」弘図岩)によれば左のとおりである。
御焼物    五
御飯    香物 一
御汁  鱠
猪口   二
御汁
御平 御通 四
   御鉢 三
一、御慰斗上ル   一、御本膳   一、二ノ御膳
一、御鉢   一、御通   一、御焼物
一、御鉢御通下ル  一、御盃台 御焼物ト引替
一、御銚子 御鉢付所江付ル   一、御肴 御台屋江置
一、御銚子 二献目   一、御かさ取   一、御吸物御膳 二ノ御膳ト引替   一、御銚子 三献目
一、御肴 御吸物膳ヘ上ル   一、御盃台下ル   一、御吸物御膳下ル   一、御湯   一、御水
一、御本膳下ル   一、御菓子   一、御薄茶   一、御菓子盆下ル

 右のとおりで、七菜では料理が少し多くなり、酒は燗酒と冷酒の二種類に増え、お菓子の御代わり、濃茶(こいちゃ)が追加され、最後に煙草が出るなど品数が増えている。

図86.二汁五菜御膳組并出順

 以上によって、食事の様子をある程度は知ることができるであろう。