藩士には上級から下級の者まで身分差があり、食事の内容も異なっていたであろうと推定されるが、法令には「御家中(ごかちゅう)」と表現されている場合が多く、特別な場合を除き、階層差を考慮しない。
国立史料館編『津軽家御定書』(一九八一年 東京大学出版会刊)寛文八年(一六六八)三月二十二日条の中に、「不断之振舞には、一汁・かうのもの共に三菜たるへき事」とみえている。これは対象が藩士か町人か必ずしも明確ではないが、日常の食事は一汁三菜と規定されたものである。「不断」とは日常のことであり、「かうのもの」は香の物、すなわち漬物のことである。したがって平常の生活では、飯と汁のほかに、おかずは漬物を含めて三品という質素なものであった。「国日記」享保九年(一七二四)十月十五日条には、「一汁一菜」と記されており、寛文八年と享保九年はともに凶作でなかったにもかかわらずこの程度だったのである。
宝永期(一七〇四~一一)ころの記録に、飲食は質素なものを用い、黒米(玄米)に鏡汁(具を入れない味噌汁)だけで済ました(菊池元衛編『津軽信政公事績』一九八九年)、とみえるが、一汁一菜~一汁三菜の規定は、右の実態とそんなに隔たりはなかったであろう。