「国日記」正徳元年八月二十六日条には、大要次のようなことが記されている。
一、婚礼は近年身のほど以上に贅沢になっているようである。料理は二汁五菜以上にならないようにせよ。もちろん、嶋台(しまだい)などの飾物は厳禁する。そのほかのお祝いに、料理は二汁三菜を越えてはならない。
一、仏事に際しても軽くするようにして、料理は一汁五菜を過ぎないようにすべきである。
このように、婚礼の時の食事は二汁五菜~二汁三菜程度、仏事に際しては一汁五菜と区別していたのである。
「国日記」明和五年(一七六八)三月九日条、享和三年七月十二日条(資料近世2No.二〇八)、文化四年十二月十五日条、文政十年十二月二十八日条に、婚礼・仏事の際には一汁三菜とみえている。
図94.壽宴の図
「国日記」文化八年(一八一一)九月一日条では一汁二菜、さらに嘉永六年(一八五三)十二月十一日条には、一汁二菜とあるが、婚礼の時の祝膳で取肴(とりざかな)に五〇〇石以上の者とそれ以下の者とに分けられた。
以上のように年代的にみてくると、婚礼・仏事に際しては、藩政中期までは二汁五菜~二汁三菜であったが、藩政後期以降は、宝暦改革を初めとしてその後の改革にもかかわらず、藩財政の窮迫は藩士の生活を圧迫し、一汁三菜から一汁二菜へと倹約が一般化し、藩士の生活が追いつめられてきたのである。