門の構造と屋根の材料

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門の造については記録がなく不明といってよいが、前掲「御家中屋鋪建家図」(資料近世2No.二一五)にみえる建坪一〇九坪を数える木村八左衛門宅の平面図には、南表口の正門と思われる「門」の横に二坪半の「門番家」があり、境界から深く後退して表示されたその「門」には屋根が架(か)かって扉が二枚ついている。それが薬医門(やくいもん)(本柱が門の中心線上から前方にずれている。本柱と控柱を結ぶ中間の上に束(つか)をのせて切妻屋根をのせた門)であったかどうかは明らかでない。しかし、その他の柱二本の表示による中・下級藩士の屋敷門は、その形と当時の格式とから考え合わせると、冠木(かぶき)門形式のものと解しておくのが妥当である(『弘前の町並―武家屋敷―』一九七七年 弘前市・弘前市教育委員会刊)。

図100.薬医門


図101.冠木門

 次に屋根を葺いた材料については、門の造と同様に記録に乏しい。「国日記」享保九年(一七二四)十月十五日条にみえる倹約令の中に「(上略)或は萱ふきを、或は土屋祢をいたす事尤なるへき事」とあり、これによって茅(萱)葺屋根のほかに土をのせた屋根があったことが知られる。土屋根は、おそらく板葺屋根の上に土をのせたもので、下級藩士の家屋であろう。「国日記」嘉永二年(一八四九)十一月二十四日条にある御目付触(おめつけふれ)に「(上略)為手入高百石ニ付、柾(まさ)五千枚・木舞百本之割合を以拝借被仰候、(下略)」とみえる。
 ここでいう柾とはヒバ材の割り木羽であって、藩内山林で生産される商品として重要であったが、積雪に対して土がわらよりは優れ、防火上では、藁葺よりは優ることなどから使されたものである(前掲『弘前の町並―武家屋敷―』)。木舞(こまい)とは、壁土(かべつち)を塗る下地(したじ)を作るのに使われる細い木や葦のことである。
 この御目付触は、屋根を修理するため、役高一〇〇石につき柾五〇〇〇枚ほど借りることを藩が承認したものである。柾五〇〇〇枚から、中級藩士柾屋根の家屋が推定される。