帰国の旅

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藩主江戸参勤を終えて弘前へ帰国する際の旅はどのようなものであったろうか。「添田儀左衛門日記」(本節四(三)参照)によれば、添田の眼を通してみた四代藩主信政一行の旅の様子は左のようになろう。
 天和二年(一六八二)五月三日江戸を出発して同月二十一日着城までの大要を示す。
 五月三日、午前六時、上屋敷(かみやしき)(神田小川町、現東京都千代田区)へ行き、薬箱などの準備をする。十時藩主が上屋敷を出発、十二時前草下(加)(そうか)で昼休み。午後三時粕壁(かすかべ)(現埼玉県春日部市)へ到着。宿泊(以下省略)。
 四日、午前七時、粕壁(かすかべ)を出発。十時栗橋(くりはし)へ来て昼休み。その後、船場へ行き指示してお供の総人数を渡す。午後二時小山(おやま)へ到着。一日中曇りで時々小雨、夕方しばらく強い雨が降る。午後十時ころ、家老津軽大学(つがるだいがく)が足軽三人を小山より先に帰国させることを命じる。
 五日、午前八時前、小山を出発。途中午前十時前~十一時ころまで土砂降りに遭う。昼の休憩もとらず、正午すぎ宇都宮(うつのみや)へ到着(その間約八里)。到着後、宇都宮町奉行早川市郎左衛門方より本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)などの宿々へ使者を派遣してくる。それに対する礼状を出す。早川方よりも返事がくる。本多下野守より使者が参る。
 六日、今朝、衣川(ころもがわ)の船場へ先に行きお供の総人数を渡す。喜連川(きつれがわ)左兵衛へ使者を遣わし、増水した川を渡るのにお世話になったお礼を述べる。午後四時前に大田原(おおたわら)へ着く。今日は天気よく、川を渡ったのは五ヵ所、衣川と惣津川(そうつがわ)は船渡し、喜連川付近の川と作山(さくやま)の川は浅瀬を歩いて渡った。夕方、江戸からの人足が帰り、福嶋(ふくしま)の人足と交代する。
 七日、午前六時前、大田原を出発。なへかけ(ママ)(鍋掛)の川まで来ると水は平常より少し多いが、藩主は馬に乗って渡る。正午すぎ芦野(あしの)へ着き、白川(河)(しらかわ)へは午後三時すぎ到着。
 八日、午前九時すぎ白川を出発、昼の休憩なく正午に須ヶ(賀)川(すかがわ)へ到着。我々の常宿の佐藤五郎右衛門が、夕飯(昼食のこと)すぎに卵を持参して見舞いに来た。ただし今日の宿は市原伝右衛門の所であり、久しぶりに友人と会う。
 九日、二本松(にほんまつ)着。二本松藩へ挨拶の使者を勤める(二本松へ宿泊か)。
 十日、午前七時、八丁目(はっちょうめ)を出発。午前十一時、幸利(桑折)(こおり)へ到着。福嶋(ふくしま)を通った際には、本多(ほんだ)中務より命じられて町の道路が念入りに掃除されており、お礼の使者を遣わす。
 十一日、午前六時前に幸利を出発し戸沢(とざわ)で昼の休憩。午後四時前、湯原(ゆばら)へ到着。松平(まつだいら)陸奥守の使者が来る。
 十二日、午前七時、湯原を出発、昼の休憩なく午後二時前に山形(やまがた)へ到着。私たちの宿の主人、庄司善左衛門が特にご馳走してくれた。本陣の主人は以前からの後藤小平次である。
 十三日、午前六時、山形を出発。館岡(たておか)で昼の休憩、午後二時すぎ尾花沢(おばなざわ)へ到着。松平清三郎より塩鴨二羽・塩鯛二枚贈られる。本陣の主人、藤左衛門より蕎粉二袋、舟形(ふながた)の本陣の主人、市左衛門より川魚一本頂戴。
 十四日、午前六時前、尾花沢を出発し新城(庄)(しんじょう)で昼の休憩。午後二時に金山(かなやま)へ到着。本陣の主人が挨拶に出てこないので呼びつけて叱る。主人は平謝り。
 十五日、金山を午後五時出発、午後八時すぎに院内(いんない)の峠に到着(夜通し歩いたのか、この間不明)。午前十時昼休み。雨がしきりに降る。湯沢(ゆざわ)へ午後二時すぎ到着。
 十六日、午前六時前に湯沢を出発し、横手(よこて)で昼の休憩。午後三時に大曲(おおまがり)に到着。
 十七日、午前四時に大曲を出発、神宮寺(じんぐうじ)を経て境(さかい)で昼の休憩。やがて久保田(くぼた)へ着き、佐竹右京へ添田が使者となって挨拶。家老梅津半右衛門が病気のため正木兵庫が出て応対する。そのあと矢野平右衛門・町奉行黒沢末右衛門が接待する。初め蕎麦切り・ひやむぎが出され、一汁五菜の料理であった。午後六時前に湊(みなと)の本陣へ帰る。湊の本陣の主人は河野屋弥三右衛門、私たちの宿(脇本陣か)の主人は杉山藤兵衛であった。
 十八日、午前七時すぎ湊を出発し、大川(おおかわ)で昼の休憩をして午後四時すぎに森(盛)岡(もりおか)に到着。夜食にひやむぎが出されて藩主が召し上がり、家老用人が相伴し、私たちも頂戴する。
 十九日、午前六時前に盛(森)岡を出発、正午前に飛根(とびね)に着き休憩、その後に荷上ヶ場(にあげば)へ参り、惣船奉行がつとめてくれた(船渡しと思われる)。午後四時ころつつれこ(綴子)に到着。
 二十日、つつれこを夜の内(早朝)に出発、大館(おおだて)で昼の休憩。杉峠(すぎとうげ)(矢立(やたて)峠)でしばらく休み、藩主はお菓子を召し上がる。午後四時ころ碇ヶ関へ到着。今日は一日中雨が降って道路が悪く、領内へ入ってからは沢や川を何回も越えた。これを昔は六拾越といったが、その後数が減り弐拾渡しとなり、これははたせ(弐拾)越というべきだろうか。碇ヶ関の宿へ到着後、子供たちからの手紙をみる。夜には本陣へお供の者たちが藩主に召し出されお菓子を頂いたが、寄合・組以上は直接に頂戴した。
 二十一日、午前七時すぎ碇ヶ関を出発し、正午に弘前城へ到着(二十一日以後のことについては、本節四(三)参照)。