山林の火災

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集落の火災のほかに、山火事もあった。野火(のび)とは、新しい草がよく生えるようにと、早春に野山の枯草を焼く火のことである。それが山火事に拡大することがあり、元禄十四年(一七〇一)三月には番所を設置して火打道具改めを行い(国日記)、次いで翌年三月には野火をつけることはもちろん、火打道具を持って山へ入ることが禁止された(菊池元衛編『津軽信政公事績』一八九八年 菊池元衛)。
 野火禁止の法令が、幕末まで枚挙にいとまがないほど出されていることは、山林火災が多かったことを意味するが、詳細な規定は、「国日記」安永九年(一七八〇)二月三十日条にみえ、大要を示すと左のようになる(資料近世2No.二六七)。
①数年連続して焼くと、かえって新しい草が生えないので、今年より野火は禁止。

②牧地の草焼きは禁止。

③炭焼きには失火がないよう充分注意し、日没前に焼き終わるようにすること。

④失火を例年の野火だと軽く考えると、消火が遅れて大火となる場合がある。今は小さな野火でもすぐに消すこと。

⑤山麓の村近郷、薪採りの村々などでは、消火の具・藁箒類を意しておくこと。

⑥萱萢は村役人立ち会いのうえ焼き払い、野萱は焼き払うことを停止する。何かある場合は指図を受けよ。

⑦火打道具を山へ持参することは停止。野火があれば山野に働きに行った者を取り調べる。

 さらには野火をつけた犯人を捕らえた者には褒美を下し、野火をつけた犯人を見逃すか、隠し置いた者は犯人と同罪にすると定めた。
 右の七ヵ条から山林火災防止対策が知られる。それは、集落内の大火よりも消火が困難で、繁茂している立木の焼失による損害が大きかったからであろう。この規定は、その後、幕末までに出された多数の野火禁止令の基礎となったものと思われる。山林火災は、農民の生活に大きな影響を与えたのである。