桑の栽培と養蚕も古くから行われていたが、組織的かつ専門的に行われるようになったのは、野本道玄と道玄の斡旋で招かれた欲賀庄三郎と冨江次郎右衛門両人の入国以後のことである。両人は入国の翌年元禄十三年(一七〇〇)には領内各地の桑の植栽並びに養蚕の状況を査察している。
また、元禄十三年四月二十六日条の金田仁右衛門(かねたにえもん)(金は兼とも表記されている)口上の覚によると、桑植え付けのため中畑(なかはた)(現市内三和(みわ))の七〇町歩(約七〇万平方メートル)と赤田組(あかだぐみ)四反(支旦とも)袋・藤代(ふじしろ)組横木袋とも(以上現在地不詳)六〇町歩(約六〇万平方メートル)の土地に桑の植栽を申し出ている。前者では小友(おとも)村(現市内小友)や廻堰(まわりぜき)(現北津軽郡鶴田(つるた)町)など六ヵ村の農民たちに、後者では板屋野木(いたやのき)(現北津軽郡板柳(いたやなぎ)町)の農民たちに身代相応の割り当てを行っている。なお畑作に支障を来さないよう畑沿いの土地を利用させるとともに、蚕の飼育と糸取りの指導を行い、中畑村を蚕飼派(こがいはだち)村に仕立てる計画がなされた。
翌五月には願いがかなえられたが、植え付けに当たっては、近在に苗木が少なかったため桑実の提供を願い出ている。一方、新田のうち筒木坂(どうぎざか)(現西津軽郡木造(きづくり)町)・牛潟(うしがた)(現西津軽郡車力(しゃりき)村)・まさこ(同前)三ヵ村地続きの土地で幅一里(約四キロメートル)、長さ三里ほどの場所に自生している桑の小木の掘り出しを願い出、中畑村など三ヵ所に四万本の移植が行われた。
金田仁右衛門は近江(現滋賀県)の出で、寛文十年(一六七〇)に入国し、養蚕に従事するとともに絹織も手がけており、技術的には織会所同様の指南役としての評価を受けていた。
また元禄十四年(一七〇一)には野本道玄が上野(うわの)(宇和野とも表記。現弘前市の小沢(こざわ)から悪戸(あくど)・下湯口(しもゆぐち)辺に広がる地域)のうち小沢地区に見立てていた一里四方の場所を、織座用桑畑に仕立てるため九月に検地、翌十五年にかけて七万本の苗木が植え付けられた。ところが、宝永二年(一七〇五)九月の見分では、掘り取りや伐り取りのために苗木がかなり減少していた。これは欲賀庄三郎が道玄に連絡もなく、織座用には三〇〇間(約五四〇メートル)四方で良いとする判断で、他への植え替え用として抜き取ったためであった。
植え替え地は五郎袋(ごろうぶくろ)・大川(おおかわ)袋(いずれも現市内大川)・青女子(あおなご)袋(現市内青女子)と曽助袋(不詳)・清野(せいの)袋(現市内清野袋)・町田(まちだ)袋(現市内町田)の六ヵ所でそれぞれ作人を申し付けている。その後、宝永三年には、桑は多いほど良いとして、小沢一里四方に加え、前記六ヵ所の袋地区も、織座御用の桑畑として扱われるようになった。
なお元禄十五年には、弘前東南の猫右衛門(ねこえもん)町(現市内松森町(まつもりまち))末から松並木の植え留めまでの間両側に七〇軒の屋敷割りをし、一軒につき一町五反歩(約一万五〇〇〇平方メートル)ずつを桑畑に割り付けしている。もっとも桑の植栽は各庭前を含め広く行われていた。