七月九日、酷暑の中、入学式が行われた。入学生は三〇〇人ほどであったという。学官は六ツ時(午前六時ころ)に、入学生は六ツ半時に、裃の礼装で打ち揃い、厳粛な雰囲気の中で式次第が進行し、格物堂での総司の謁見をもって終了した。この一連の荘重な儀式は、当事者たちの学校に寄せる期待と意気込みを表すものではあったが、それだけに傍目には、いかにも繁文縟礼(はんぶんじょくれい)で空々しく大仰に映った。「封内事実秘苑」は入学の式典のさまを「正敷(まさしく)唐人の真似之様」で、「其動作六ヶ敷事計」と書きとどめているが(同前No.二八九)、学校を武士の実際の生活感覚からかけ離れたところにあるものとして、冷ややかにみるものが少なくなかった。こうした「唐人の真似」への悪感情は家中内でくすぶり続けた。
「封内事実秘苑」は、その状況を伝えて、当世、何事も「唐流」になり、家老を「唐風」に「国相」と、勘定奉行を「司会」、郡奉行を「郡正」、町奉行を「市正」、人別方を「民籍」などと呼んで、これら「凡て唐流の棟梁は津軽永孚」である、と述べている。