橋雲寺(きょううんじ)(現中津軽郡岩木町)は愛宕権現宮の別当であった。慶長六年(一六〇一)、為信が京都の愛宕山より勝軍地蔵を浅瀬石村(現黒石市)に勧請して橋雲寺を別当とし、領内の守護神とした(「津軽一統志」)。享和三年(一八〇三)の「寺社領分限帳」によれば、馬上の勝軍地蔵尊、前立仏の不動尊・毘沙門天王・地蔵尊は、慶長七年(一六〇二)、為信の寄進によるものであった。信枚が同十四年、現在地へ移して二〇〇石を寄進し、塔頭六院を配した。弘前城下の民衆にとって、愛宕山は信仰を兼ねた物見遊山の場所としてにぎわった(「金木屋日記」弘図八)。
明治四年(一八七一)、本尊が勝軍地蔵のため神号を止めて鳥居を除くこととして、橋雲寺は存続した。修験・寺禄廃止によって、南光坊・杉本坊・見了院・全蔵院・全昌院・法学院の修験は帰農し、廃院となった。村民は高原(現市内細越)に愛宕神社をつくり、植田・細越両村の鎮守としたが、橋雲寺は愛宕山頂の奥院を愛宕神社として再興した。