蝦夷の月

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本多庸一旧藩主津軽家へ提出した紛紜に対する弁明の答申書の第二項に「国会開設請願ノ趣意」があり、そこで自分らの行動は明治元年の五箇条の御誓文と立憲政体の方針を示した明治八年の詔に基づいた行動であって「他県某社ノ慫慂(しょうよう)」を受けたからでないといい、さらに「共同会創設ノ趣旨并現状」で東奥の振るわざるは維新以来、人心散漫、知識未開、そのため互いに固陋、猜疑の心になっているからで、共同会はこの弊をなくするために地方有志が団結を図ることを目的として結成、しかし目下のところ会員はわずか百数十人、しかも常連は二、三十人にすぎない、共同会員は理論・実業両立の人としたため地方の長者たちが主である、と述べている。
 答申書第五項は「弘前紛紜ノ始末」で、このことについて四三〇〇字も費やして事の経過、自分たちの真意、世間の流説を委細を尽くして説明し、「要スルニ好事家ノ為メニスル所アリテ、術ヲ紛紜ノ間ニ放チタルモノ多キ」と結び、無念の思いに満ちている。
 明治四十年九月、函館大火の見舞いに本多は北海道に赴いたが、旭川まで足を延ばした。旭川に着いた夜はちょうど中秋の名月だった。その夜本多はどういう拍子か、もう二昔半も前、稲妻が交差するような鋭い出会いだった山田秀典を思い出した。前年アメリカ合衆国を旅行した時も中秋の名月を見みたはずだが、何の感興も湧かなかった。あれは物質文明の、黄金万能の塵中に汗を拭き拭き、埃を払い払いしての旅行中だったからだろうか。「図らずも蝦夷の月を観じて深く感ずる処あり、曾て青森県令たりし山田秀典氏、一度はゆきて見まほし韓国(からくに)の虎臥す野辺の 秋の夜の月 と詠じて感慨の意を洩らせしことを思い出で 或は今熊伏す野道の 秋の夜の月と観つつあり抔 独りごちて笑ひし」(本多庸一先生遺稿)。
 故郷を政治によって救おうとした自由民権本多庸一に希望を与えてくれたのは山田秀典だった。そしてその後に嵐のようにやってきた紛紜事件、山田はその犠牲となって死んだ。自分が結局政治から身を退く大きな転機はあの事件にあったと今、人生の終わりを間近に控えて思わざるを得ない。神の大いなる意思なのだ。ふと古い自由民権運動の仲間を思った。旅の帰りに盛岡に立ち寄った。東北七州同盟会の中心だった鈴木舎定(しゃてい)の故郷である。自由党左派に属し、激しく純粋な人物だった。十月三日午後「当市の出身にして最も古き新教信者たり、また自由党員として辛酸を嘗め、しかも国会開設を待たずして世を去りし鈴木舎定君令弟巖君及青山学院同窓者たりし飯塚、肥塚両氏と共に岩手公園を散策せり」。