勧業諸会の展開

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旧弘前藩士菊池楯衛中畑清八郎らは有志者一五人の協議により、明治十年(一八七七)に化育社の名称の結社を設立し、社員から寄付金を募って各種の農書や器具を購入し、農業の試験を行った。化育社は明治十七年(一八八四)に中津軽郡農談会と改称、中津軽郡役所楼上を借りて、月一回の集会を行い、会員相互の知識の向上を図った。同十九年には私立産業会と改称、会則を制定して規模を拡大した。産業会は明治二十一年に弘前本町に産業会館を建て、活動の舞台とした。産業会は明治二十二年に津軽産業会と名称変更した(成田果津軽産業会沿革』一八九九年)。

写真16 津軽産業会館(現東北電力敷地)

 明治二十年と二十一年には、中津軽郡公立農工商談話会を開催した。しかし、産業会の活動もあるので、同年限りで開催は中断された。
 弘前の商業経営者が中心となって、明治十七年に設立した団体に、商業弘前倶楽部がある。この団体は、「財本を増殖すること、商業を拡張し其便益を謀ること、旧弊を去り事業を改良すること」の三点を目的とし、弘前本町一番地に設立された。商業弘前倶楽部は、武田清七竹内半左衛門ほか二九人が議員となり、一〇七人の会員で構成され、他に大道寺繁禎菊池九郎ほかの士族ら二一人の名誉会員がいた。