十四年の巡幸に際して、弘前における行在所の御下命に接した金木屋は、当主は先代熊七の子清七と代わっていたが、全力を挙げてこの使命を果たそうとした。まず、行在所を新築するに当たり、本町の通りに面した空地は十分な面積がなかったので、考慮の末、結局本宅の上に新たに土台を張り、その上に宮殿造りの層楼を建て増しすることにした。
玉座をはじめ供奉の諸官の各室は一切白木の研(とぎ)出しとし、襖なども皆白張り、引き手は金の金具に朱総(ぶさ)をつけ、玉座の廻廊や欄干の金具は全部四分一(しぶいち)の彫刻付という豪華ぶりであった。本宅の表門は、御召車の出入りが自由になるように取り壊して幅広く新築、それに紫羽二重に菊の御紋を縫い取りした幕を張り、門内には盛り砂をした。階下の広間から庭園に出られるように新たに玄関を新築、これには緋緞子(ひどんす)の幕を張り、廊下の板には白天竺(てんじく)木綿を敷き詰め、天井は杉板で張った。台所には御調理場を設け、その天井を白金巾をもって張り、別に天皇の御手道具置所とされた大座敷には金木屋の工場製品の織物や津軽塗、女生徒の裁縫品を陳列して天覧に供した。この行在所の新築や、諸調度の設備に要した費用はしめて六八〇〇円という巨額に上った。郡長の俸給が月額三〇円のときであった。
金木屋はその後家運に変転があり、明治後期に至って没落し、弘前の実業界から姿を消していったが、この行在所の建物は、中津軽郡岩木町大字植田の愛宕山橋雲寺に寄進され、そこの護摩堂として現存している。
写真34 行在所に充てられた金木屋