行在所の奉迎ぶり

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明治天皇が弘前行在所に宿泊された九月九日は旧暦七月十六日に当たり、月明らかで爽気天に満ちるの感があった。夜は七時から行在所裏の土蔵の廊下に簾をめぐらして燈火を明るくともし、奏楽の場をしつらえた。そこで弘前の神官たち一二名による津軽雅楽が奏されたが、これは御意にかなったとみえ、この雅楽の由来など御下問があった。平尾魯仙や工藤他山、その他地元の画家や文人はそれぞれ絵画や著書などを献上して旅情を慰め、また、中津軽郡笹森儀助弘前町民総代は行在所に伺候して、前年の大火に際して金五百円の御下賜金があったことに対する御礼を奏上申し上げた。
 そのうちに、表の本町の通りに、にわかに喧騒が起こった。弘前町民有志による丹精込めた大きな扇ねぷたとねぷたばやしであった。このねぷたが一行に大きな感銘を与えたことは、巡幸記の記述に見ることができる。
 翌十日の午後二時、行在所を出発されるに当たって、前夜津軽雅楽を奏した楽人たちは、本町の通りに出て再び雅楽をもってお送り申し上げた。この日の経路は前日と逆に本町から親方町、土手町を経て松森町、富田町から枡形に抜け、そこから松原通り、千年村、石川を経て行程三里、蔵館に到着された。この経路に当たった本町五丁目、一番町、下土手町の界隈(かいわい)一帯は、前年の大火災で焼け野原と化したにかかわらず、この巡幸の際は面目を一新して、木の香も新しい屋並みが続いて見事に復興していたことは、後に引用する巡幸日誌においてうかがうことができる。このような短期間において復旧がなされたことは、この巡幸を前にして官民ともに全力を傾けた結果にほかならなかった。
 巡幸の際の沿道各県における所要の諸費用は、一応政府負担とはなっていたが、県や末端の戸長役場に至るまで物心ともにその負担は大きかった。しかし、その一面、道路交通、通信、その他各般の面で集中的に整備されたことも見逃し得ないところである。これを機に、みちのくの奥のこの地方に文明開化の風が一段と吹き込んできたことも確かであった。
 なお、巡幸一行は、九月十一日矢立峠を越えて秋田県へ入られ、羽州街道を南下して巡幸を続けられた後、東京の御所へ帰られたのは十月十一日であった。