弘前付近でもよく狐は稲荷様の使者だから捕らえてはならぬといったり、熊野様の氏子は熊の肉を食わず、また、熊の皮も敷物にしない。月山神社を祀(まつ)る村では兎を忌んで食べなかったなども同じ理由である。また、猿賀様を信心する者が禁制の鶏卵を食べたために神罰を受け、血を吐いて死んだという話が真剣に伝えられたりした。根ざすところが信仰だけに、明治の末から大正になって、肉食が一般化してからでもなおこうした禁忌が人の心を支配することは深く、昔気質な老人の中には、家の中で肉や卵を調理することまで嫌って、わざわざ土間に別火させたり、後で塩を炉にくべて清めさせたりしたほどであった。
さて、明治初年の神仏分離という宗教上の大改革が、まず食肉の禁忌を緩めることになった。それに、東京では、幕末以来入ってきた西洋の食文化の影響で牛肉屋が続々と現れ、たとえば『安愚楽鍋(あぐらなべ)』(仮名垣魯文著、明治四年)に見えるように、「士農工商・老若男女・賢愚貧福、おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」というありさまであった。このように開化の象徴とまで騒がれた肉食流行の新しい風習が、ほどなく弘前にも波及するようになった。
「弘藩明治一統誌 月令雑報」(内藤官八郎著)には、その間の事情について次のように記している。
鳥肉獣肉は昔より食用するも、神社仏閣信仰人ありて、忌み嫌ふ輩多し。明治三年神仏混淆仕分けより、神仏を拝するには口を水浄してよろしと称す。これより四民一般は食用す。殊にこの時より牛肉鳥肉店発売流行す。弘化・万延の頃は牛肉百斤二百文位、鶏一羽上等八十文位。明治十四年明治帝の青森へ行在の節、調理に鶏七羽づつ御買入の由、肉僅に目方二匁づつ精肉にて御供に備ふとの事。
明治天皇は、明治五年に初めて牛肉を召し上がったというが、その後各地への御巡幸が地方にこの風を移植する一動機になったことは、右の記事に見えるとおりであろう。当時の一例を挙げると、県の官員であった弘前の人北原高雅の日記(明治十四年)に、牛肉をしばしば食用する記事があり、一斤二五銭と見えている。しかし、この地方の食肉が一般化するのは、後述するようにやがて師団が設置されて、軍隊や軍人家族の需要が盛んになり、その影響が民間に及んでからのことと言わなければならない。
また、牛乳についても、同書には左のように見えている。
乳汁は昔医家の者にして滋養者なり。明治、病院設置より爾来健康保養と名を付し、乳呑児までも用ふる事と相成り、明治十二年、富田町舘山柾吉なる者専売、毎朝二、三人づつ患者に配当す。これより大いに流行となり、随って呑口機械も販売初まる。
弘前の牛乳業者の始まりであった舘山の店は、紙漉町から最勝院に向かってきた突き当たりであった。また、舘山に五年後れて、明治十七年八月に長尾富士麓が茂森町に牛乳店を開いている。『長尾周庸日記』の明治十七年八月十七日付の記事に「富士麓来り牛乳持参せり。売方願済にて今日より開業、店売一合三銭五厘、配達分は四銭づつ、於茂森東側。」とあり、また、同日記の翌十八年一月二十三日の項に付箋した小野士格(明治の市史資料収集者)の記載によれば、「此節牛乳一日に二、三升も売捌に相成事なり」と見えている。
東京では、牛肉、牛乳が流行したのは明治六年であった。弘前には明治十年二月に公立病院が開設され、右の記事にあるように患者への滋養物としての需要もあって、十二年に舘山の営業が始められたのであろうが、十八年になってもその需要量はまだ二、三升にすぎなかったのである。医者に勧められた病人でも、良家のしかも物好きな開化思想の持ち主でなければ飲まなかったであろうし、一般に牛乳といえば牛肉とともに口にすることを忌み避ける気風がその後も根強く残っていくのである。そして、牛乳の普及も、また、肉食の場合と同様に、やがて軍隊の設置によって急増する需要と、これに続く洋食流行の時代の到来まで待たねばならなかったのである。