文政のころから幕末・明治にかけて、世の動乱と推移のさまを見てきた内藤官八郎が、晩年の著「弘藩明治一統誌 月令雑報」に、今昔の世相を比較して次のように述懐している。第一に慨歎すべきことは、世の中の開化につれて人は次第に節倹を忘れ質朴を失い、とうとうたる奢侈(しゃし)の風に赴くことであるとしている。まず新奇な西洋風俗にあこがれて靴を履き、こうもり傘を携え、鞄を持ち、帽子をかぶる。また、身分の上下も顧みずに唐縮緬(とうちりめん)の着物を着たり、遊山・湯治に出歩いたり、飲食店に入って酒を飲み物を食う。それも口をおごって、玉子巻(一つ五厘)だの摺り肴(すりさかな)だの、または一皿一銭から二銭五厘もする小串焼肴や水物・寿司物でなくては食わぬ。おまけに旅籠屋・貸座敷にい続けて散財し、勝手な物知り顔をする男が多くなったではないかという。
こうした世の中になったから気質もおのずと変化して、ことに婦女の言動が粗略になった。昔の御家中の婦女はその夫に対しては恭順敬礼のまことを尽くし、部屋の出入りや応答には両手をついて物を言い、また聞いたものであった。家事については何事もまず舅姑に伺いをたててからするし、日に三度の食事も言いつけられたとおりに調理する。夜は必ず両親の枕辺であいさつをしてから休む。女は口数も少なく温和で、万事控え目で貞節なのが建て前であった。
ところが、明治になってからはすべてがわがまま勝手になり、言動もまた粗略になった。年寄りに向かっても、立ったままで後を振り向きざまに物を言ったり、また自己を主張して他を罵るなど、少しも上下のわきまえがなくなってしまった。以上が、維新の動乱を境にした新・旧二つの世相や気風の著しい変化である--と述べている。
時代の大きな変わり目にはよく見られることだが、明治前後に見る、あれほどの社会制度の根本的大変革や外国文化への急速な模倣が行われた結果として、人々の生活内容や気風の上に第一に現れた影響は、これまで置かれていた封建的な制約からの、自由解放の意識に立った行動であった、ということを右の記事がよく物語っている。珍しい新風俗に好奇心を寄せながらも、世の開化に伴う新風の流行を快く思わぬ保守的な傾向も城下町だけに相当に顕著であった。
まず断髪令に対する反感として、例えば士族葛西音弥がその編著『青森沿革史』に記した自らの所説に、「頓に坊主にして坊主に非ず、山賊にして山賊にあらず。愛念去りて厭悪の心生ず。何者か甘んじて断髪令を奉ずるものあらんや」とまで極言している。
また、幕末のころ、平田派の皇学を修めた平尾魯仙が、同学の友人岩間滴・増田幸太郎と三人で、明治六年に猿賀神社に二度参詣することになった逸話が伝えられている。
国風尊重の人々だけに、わざわざ「外国の品物に手を触れず」という題で、一人三十首ずつ和歌を詠み、これを額にして猿賀神社拝殿の外縁に掲げてきたという。ところが、後日この三人がそろって百沢へ行った。途中、賀田で雨に降られ、新法師でやっと晴れたが、着物が濡れて寒くてたまらなかった。この日同道した者の中に赤ケットを着、こうもりを持っていたのがあって、そのために少しも濡れずいかにも便利であった。これを見た魯仙ら三人は一概に洋風を斥けたことを恥じ、再び申し合わせて猿賀神社に赴き、さきの掲額に大工にかんなをかけさせた上、今度は「外国の品物を用うべし」と題して百首ずつの和歌を詠み、改めて奉納したという。
国学者もこうして時勢に同化していこうとしたが、岩木山神社の神官が明治十年に東照宮に来た時、神職を戒める例話として右の話を引用し、僧侶はやがて洋服に袈裟をかけ、靴を履いて引導を渡すことになろうが、神官はあくまでも古式を守るべしと諭したと言われる。
また、明治十四年九月九日の明治天皇御来弘の際、下沢保躬は、紙漉沢の長慶天皇御陵墓と伝えるものに関して言上したいといって、わざわざ狩衣(かりぎぬ)に烏帽子(えぼし)を着け笏(しゃく)を持ち、本町武田音吉方の熾仁親王御宿にいる三条実美に面会を申し入れた。ところが、この異様な服装のために警衛の巡査に狂人と見とがめられ、玄関先で捕まってそのまま拘束されてしまったという。国学者の国粋風俗もいまや狂人扱いされてしまったところに、明治の新しい風潮の一面がうかがわれる。