ジョン・イングの貢献

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草創期の東奥義塾に五人着任した中でも、イングは現在に至るまでその功績を数々語られている人物である。ここでは主に東奥義塾教師としての貢献について述べる。
 開学時の東奥義塾は、中心となって動いた人物の多くが慶応義塾で学んでいたことから、学校の体制は慶応義塾に範をとった部分が多かったと指摘されている。しかし、イングはみずからの指導方針に従ってカリキュラムや使用する教科書などを変更し、明治十年前後の東奥義塾は、事実上アメリカの中等教育機関に近い教育内容を持つ学校となっていた。明治期東奥義塾で教科書として使用された英書は、現在も東奥義塾高等学校図書館古文書室と弘前市立図書館に残っているが、そのうちの約二〇冊は、一八六〇~七〇年代にかけてイングの母校で使われた教科書と同書と推定される。特に数学は、両校のカリキュラムに共通して同じ著者の教科書を使用した。当時の日本で英書を教科書として学ぶこと自体はそれほど珍しいことではなかったが、イングの指導はきわめて大きな成果を上げ、一八七七年に留学した東奥義塾生たちは、いずれも現地の学生にまったく引けを取らない、みごとな成績を残した。

写真46 東奥義塾物理教科書

 次にイングの重要な貢献として挙げられるのは、アメリカの大学で当時よく行われていた「文学社会(Literary Society)」という組織形態を伝えたことである。これは「朗読、演説、討論」など言論術を鍛えるいわゆる文学会のことで、一般的には北海道大学の前身である札幌農学校にクラークが伝えた開識社が、日本で最も早い文学会組織とされている(明治九年十一月ごろの発足)。明治二十年代になるとキリスト教系の学校に同様の組織が作られるようになった。東奥義塾の「文学社会」の場合、明治七年末のイング着任後それほど時間を置かずに伝えられたと考えられる。たとえば、明治九年に明治天皇が東北に巡幸した際、七月十五日に青森の蓮心寺において「天覧授業」が行われ、東奥義塾生が英語で演説などを行ったが、これも「討論」こそ省かれているものの、基本的には「文学社会」の形態をほぼ踏襲している。
 この「文学社会」はやがて「文学会」と名前を変え、東奥義塾の生徒たちに大きな影響を及ぼした。東奥義塾生たちは、優れた英文の暗唱や論説執筆を通して英語力を鍛えた。また、「文学社会」の組織には生徒だけではなく教師も入っており、「討論」のテーマには地域振興や政治的なものも含まれたことから、同校を拠点とした自由民権運動の活発化にも寄与した。さらに明治二十年代になると、「文学会」は市中でも開催されるようになった。それは、学生弁論の奨励にもなり、同時に市中の人々に学術や知識の重要性を知らせるためでもあったが、人の前で演説するという習慣が根づいていなかった当時の状況下において、啓蒙的な役割を果たした。明治十年代半ばからでき始めた町道場でも、やがて「文学会」や「文学部」が作られるようになり、青年たちは武術だけではなく、ここでも言論を鍛えた。
 もともと幕藩体制時の日本には「演説」という言葉や概念がなく、明治以降に福沢諭吉によって始められたとされる。大勢の人たちの前で自分の意見を筋道立てて話す習慣のなかった明治初期において、イングが東奥義塾に「文学社会」組織形態を伝え、自分で考え自分の言葉で語るという、思想鍛錬にもつながる指導をしたことの意義は決して小さいものではない。それは、イングがこの地に伝えた数々の事柄の中でも、きわめて重要なものの一つであったのである。

写真47 天覧授業を記念しジョン・イング一家を囲んで(明治9年)

 イングは以上のほかにも、明治十年には東奥義塾生五人をアメリカ留学に送り出し、また、みずから地質学を学びながら、この地方の人々とともに地域開発にも当たった。特にイングによって実現した津軽地方初の海外留学は、受け入れ先であったイングの母校インディアナ・アズベリー大学当局との事前の綿密な打ち合わせに基づいており、留学生たちは働きながら学ぶことができた。こうして数々の貢献がイングによってなされたが、中でも最も大きな影響力を持ったのは、キリスト教普及であった。これについては、後述する。