キリスト教

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弘前はメソジスト派合同の際に初代監督となった本多庸一をはじめ、数々のキリスト者を送り出した土地であるが、『七一雑報』によると、明治五年(一八七二)に成田五十穂キリスト教宣教を始めている。翌年にはウォルフ夫妻が着任して、宣教師による伝道も開始された。ウォルフは安息日ごとに聖書会読を行って諄々と教え、後任のマックレーも安息日には聖書を読んでいた。しかし、この時点までは、キリスト教に注意を払う者は少なかった。原因は、ウォルフマックレーともに英語で聖書を教えたために、言葉がよく伝わらなかったためである。さらに、かつて禁教であったキリスト教に対する偏見並びに抵抗もきわめて大きく、洗礼を希望する東奥義塾生たちは、心配する親によって、ときには刀をもって脅されたり、出校を止められたりしたと、山鹿元治郎は伝えている(「六十年回顧 入信当時を偲びて」青山学院所蔵史料)。
 この厳しい条件にもかかわらず、イングは弘前に来てからわずか半年後の明治八年六月六日に、一四人に洗礼を授けた。それから明治十一年三月に弘前を去るまでの間、イングが洗礼を授けた人数は、少なくとも三五人に上る。ウォルフマックレーに比べると彼のキリスト教布教は成果を上げたことになるが、その背景には、弘前でその人柄を広く慕われた本多庸一の存在があったことはよく指摘されている。いずれにしても、イングと本多の二人が弘前のキリスト教普及に果たした役割は、非常に大きかった。
 弘前の教会が組織されたのは、明治八年十月のことである。本多庸一が横浜公会のジェームズ・バラの下で洗礼を受けていたことから、最初は公会としてのスタートであった。翌明治九年十二月に、イングの属するメソジスト教会に加入することになり、明治十年八月からは、イング自身も給料をメソジストミッションから受け取るようになった。ここでイングは東奥義塾との契約を再契約し、給料はそれまでの一六七円から六七円に減額となった。この間のいきさつを窺わせる内容が、本多から恩師バラに宛てた書簡の中に書かれている。
我々は今後ずっと学校及び教会のためによい教師を確保することが非常に大事であると考えています。しかし、この学校は、本当にお金がないのです。この学校は、先の藩主が毎年援助してくれてるお金のほかは、これといったものもなく、その藩主の援助金も一年のうちに使いきってしまうので、いったいいつまで外国人教師を雇傭できるのか、まったく見当もつきません。実によくない状態になっています。イング氏はこのことをたいへん心配して、親切にもつぎのような助言をしてくれました。
「ここに学校教師の助けをかりて外国のミッションをおく方法が、一番いいでしょう。そうすると教会のためにも学校のためにもなります。メソジスト教会ならそれができるし、この先もずっとやってくれると思います。でもその際に問題となるのは、教会の制度が違うことです。」
(明治九年一月十五日付バラ宛本多庸一英文書簡、横浜開港資料館所蔵資料)

 所属教派の問題も、結局は東奥義塾の資金難が大きな要素として絡んでいたことがわかる。イングのこうした行動は「義気に富み、義塾資金の薄弱なるを聞き、深く之を憂慮し自ら俸給を減殺して学校資金の儲蓄に供せしめた」(『東奥義塾再興十年史』)と後々まで讚(たた)えられることになった。
 イングによる弘前での伝道は着々と進んだ。明治十年には東奥義塾だけではなく市内の他の学校にもキリスト教が広がっている。しかし皮肉なことに、イングの宣教が効果を上げるにつれ、東奥義塾に対する風当たりは強くなった。東奥義塾の校舎を使っての伝道に向けられた攻撃をかわすために、市内に家屋を購入して本多等が居住するなどの対策をとったりしたが、非難は収まらなかった。それはやがて旧藩主との関係も絡んで政治問題と化し、後述するように東奥義塾存廃問題へと進んでいくことになった。

写真50 弘前教会(元寺町・明治19年)

 キリスト教は、弘前において単なる宗教としてだけではなく、女子教育や人々の生活にも広く影響を及ぼした。キリスト教が広まる拠点となった東奥義塾では、男女平等思想も広まり、たとえば明治十一年ごろに東奥義塾から発行されていた『開文雑誌』にも、こうした視点に基づく論説が掲載されている。弘前教会の女性信者を中心とした矯風会は、明治二十一年という全国的に見てもきわめて早い時期の結成とされるが、禁酒運動や廃娼運動などさまざまな活動を展開した。特にこの矯風会のメンバーは当時の弘前でも指導的立場に立つ女性たちが多く、愛国婦人会などの組織とも主要メンバーが重なっていた。飢饉のときには教会を挙げて救済活動を行い、着任した宣教師夫人による市中での音楽会も開催するなど、その活動は多岐にわたった。