日清戦争の戦場は朝鮮半島や中国大陸だった。そのため、弘前市ないし青森県とは最も遠い地域にあり、その分、関心度も低かった。ところが、三国干渉の結果、ロシアが最大の仮想敵国となると、青森は最もロシアに近い県になる。弘前市民にとっても、ロシアとの関係は関心を呼ばずにはおかなかった。
陸軍当局は外征軍構築のために師団の拡張を意図し、海軍当局は北方警備の拠点を構築すべく軍事力の整備を進めた。その結果、弘前市に第八師団が、大湊に水雷団がそれぞれ新設された。県庁を青森に奪われたと感じる弘前市民にとって、第八師団の設置は新しい弘前市をめざす上で大きな意味をもったのである。
日清戦争当時の師団は全国で第六師団までしかなかった。戦後、陸軍当局は師団の倍増を計画し、明治二十九年(一八九六)三月十六日、陸軍管区を改正した。第七師団から第一二師団まで六師団を新たに増設し、弘前に第八師団、金沢に第九師団、姫路に第一〇師団、善通寺に第一一師団、久留米に第一二師団を置いた。また屯田兵を明治二十七年(一八九四)に改称し、第七師団を北海道に設置している。二年後に正規の師団長を発令し、弘前第八師団の初代師団長には、立見尚文が就任した。
写真76 立見尚文師団長
師団拡張の結果、これまで仙台の第二師団に属していた青森・岩手・秋田三県は、新たに第八師団に属することになった。弘前市には師団司令部と歩兵連隊二つからなる第四旅団が置かれた。第四旅団は青森の歩兵第五連隊と弘前の歩兵第三一連隊から編制された。青森県は青森町(現青森市)に県庁が置かれて以来、政治の中心が青森町に移り、経済的実力も徐々に弘前市に迫るまでになってきていた。だが青森県だけでなく、北東北一帯を管轄する大師団が弘前市に置かれることになり、弘前市は軍事都市としての機能を強化することで、市の繁栄に期待をかけるようになるのである。