第八師団の実状

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全国各師団の実状は時折天皇に上奏されることになっていた。明治三十五年(一九〇二)一月、明治天皇に上奏した各師団長の言上書が防衛庁防衛研究所図書館に残されている。それを見ると、第八師団立見尚文の名で、日露戦争を間近に控えた当時の第八師団管下の様子が、概略的ではあるが記されている。
 立見師団長は、雪国を管下に控える第八師団では積雪のために新兵の訓練が十分でないことを上申している。冬期間に新鮮な野菜が乏しく、価格も安くないなど食糧調達に苦心していることも指摘している。被服も冬期間は毛布、外套などの特別給与品があるが、いずれも防寒上問題が多かった。洗濯の乾燥も不十分であり、衛生上の観点からも防寒問題が重要であるという。いずれも北東北三県を管轄する雪国地域の師団を特徴づける内容が盛り込まれており、興味深い。
 防寒対策、とくに雪対策が北方師団である第八師団に課せられた大きな課題となった。雪中行軍の作戦もこうした背景に実施されたわけである。有名な歩兵第五連隊雪中行軍遭難事件も、寒冷地にある師団の作戦遂行上から生じた悲劇だった。立見師団長は天皇への上奏の最後に、第八師団将兵と地方官民との間は、相互の事情を疎通するにしたがい円満になりつつあると指摘していた。けれどもこの後、防寒対策も兼ねた八甲田雪中行軍の作戦で、二〇〇人近い死者が出る大遭難事件が起こり、地方官民の軍隊に対する意識は一転して暗転する。
 立見師団長の上奏からもわかるように、新設されたばかりの第八師団管下の各部隊にとって、防寒対策、とくに雪対策は至上課題の一つだった。そのため歩兵第五連隊第三一連隊は、師団設置以来たびたび雪中行軍演習を実施してきた。時には両連隊が連合して対抗演習をするなど、雪中対策が第八師団の作戦を特徴づけるものとなっていた。明治三十五年(一九〇二)の一月下旬、立見師団長が明治天皇師団の実状を上奏したその月に、師団管下の第五・第三一両連隊は、ほぼ時を同じくして雪中行軍演習に出発した。『東奥日報』は両隊の出発について「他日国家一朝事あるの日、我雪国軍隊が雪中行軍に得たる幾多の経験を応用するの時あるべし」と記している。この年は寒波が襲いかかるなど、例年以上の寒さが到来していた。雪中行軍遭難事件は、まさしくこの時に起こったのである。