けれども三一連隊の行軍事実は、五連隊の悲劇の前に隠蔽され、三一連隊の壮挙は賞賛されることもなく、闇に葬られた。そのため福島中隊長率いる三一連隊の行軍については、五連隊の雪中行軍に比較して極端に資料が少ない。それでも三一連隊の壮挙は近年脚光を浴び、研究や文献が相次いで出版されている。本節では近年の青森県史をはじめ、青森市史・弘前市史の編纂事業で発掘された資料から、三一連隊の行軍過程がわかる記事を紹介しよう。
写真78 歩兵第31連隊の行軍
発掘された資料は、軍当局による検閲で幻となっていた『東奥日報』明治三十五年二月四日付の新聞である(当該記事に関しては、中園裕「資料で見る雪中行軍」『市史研究あおもり』7、青森市、二〇〇四年を参照)。この幻となっていた『東奥日報』には、第三一連隊に従軍していた東奥日報社の記者・東海勇三郎が行軍記を記しているのである。東海記者はこの前後にも行軍記を連載していたのだが、後述する五連隊と三一連隊の遭遇事実を記してしまったがために、軍からの圧力と東奥日報社内の自主規制(自粛)を受けていたように思われる。東海記者が連載していたであろう新聞が、前後一〇日間分欠損しており、東奥日報社の保存紙にも見当たらないからである(二月四日付『東奥日報』記事は、青森県史編さん室で所蔵)。
これまで東海記者の「雪中行軍記」は、行軍四日目(一月二十三日)を記した一月二十九日付の第三七三六号と、最後の三日間(二十六~二十八日)を記した一月二十九日付号外だけだった。それが二月四日付の新聞から、行軍二日目の一月二十一日の様子を記した記事が発見されたのである。さらにこの新聞記事内容から、行軍三日目の一月二十二日の記事が、欠号となっていた一月二十八日付の第三七三五号に書かれていたことも判明した。『東奥日報』の欠号は一月二十八日(第三七三五号)と、三十日(第三七三七号)から二月七日(第三七四三号)までである。行軍初日と五日から六日の記事は、この間に書かれたものと推測されよう。二月四日付の他の記事面には、二月三日に号外が発行されていたことも記されている。号外に連載されていた可能性もあろう。いずれにせよ東海記者が「雪中行軍記」を連載していたことが明らかになった。検閲など、なんらかの圧力が東海記者にかけられたことも、ほぼ間違いないことが判明したのである。
少々引用が長くなるが、貴重な資料であるので、全文を引用してみたい(適宜句読点を補った)。
雑報 三十一聯隊雪中行軍記(東海生)
比和台に上ほる寒林鳥□影たもなし、風少なき所の枝には雪は玉を綴るか如く聯りて頗る美観なり、下瞰すれは畳々たる巒(らん)峰白衣の神仙の遊ふ瑤台ならんとも思はるゝものあり、顧みれは四五人の上り来たるを見る、一行皆な斯かる所に上り来たるには何かの仔細あるへし、此所に待たんとて少憩し居りしに、近つくを見れは竹舘村長相馬清次郎氏なり、氏は人夫四名□〔を〕引連れ夜具や酒樽を負はせて来りしなり、即ち今夜□〔一〕行を宿せしめんかために荷物を運び来りしなり、一行は先つ好意を謝し夫れより村長自から先導者となりて進めり、村長相馬氏の尽力尋常にあらす、昨夜も小国村へ同氏来たりて一泊し、吾等の宿舎に就て総ての用意を整へ本日もまた斯の如し、氏の尽力実に感謝に堪へす、相馬氏の先導の為め一行の進行も頗る難を減したり、遂に路は平垣なる所に出つ、此処に於て一行の写真を撮れり、蓋し相馬氏の厚意を謝せんか為めなり、記念写真の第三回なり、夫れより沢を巡り行くこと数丁、雪荊棘(けいきょく)を没了し居るか雪未た堅からす、歩々脛を没して進行容易ならさりし、辛くも湯坂に着せり、湯坂は非常の深渓にて谷にまて下たるに十二の坂あり、この十二曲の間は断崖甚た危険なり、行くこと三四丁にして削立の坂あり、一行滑り~~下れり、危険のところ一々枚挙するに遑(いとま)あらす、尚ほ下りて五六丁を行く、切明村に着せり、時に十一時四十分、本日は朝は摂氏の零下二度、昼は零下一度、夕は零下四度なりし、切明村に宿る、村長相馬氏の尽力にて宿舎優待せり、この地に温泉あり夜は一行喜憂の談湧くか如かりき、而して衆皆な福島大尉の元気旺盛にして峻坂と雖も苟くも躊躇せさる健脚に威服せり(二十一日切明村に於て)
比和台に上ほる寒林鳥□影たもなし、風少なき所の枝には雪は玉を綴るか如く聯りて頗る美観なり、下瞰すれは畳々たる巒(らん)峰白衣の神仙の遊ふ瑤台ならんとも思はるゝものあり、顧みれは四五人の上り来たるを見る、一行皆な斯かる所に上り来たるには何かの仔細あるへし、此所に待たんとて少憩し居りしに、近つくを見れは竹舘村長相馬清次郎氏なり、氏は人夫四名□〔を〕引連れ夜具や酒樽を負はせて来りしなり、即ち今夜□〔一〕行を宿せしめんかために荷物を運び来りしなり、一行は先つ好意を謝し夫れより村長自から先導者となりて進めり、村長相馬氏の尽力尋常にあらす、昨夜も小国村へ同氏来たりて一泊し、吾等の宿舎に就て総ての用意を整へ本日もまた斯の如し、氏の尽力実に感謝に堪へす、相馬氏の先導の為め一行の進行も頗る難を減したり、遂に路は平垣なる所に出つ、此処に於て一行の写真を撮れり、蓋し相馬氏の厚意を謝せんか為めなり、記念写真の第三回なり、夫れより沢を巡り行くこと数丁、雪荊棘(けいきょく)を没了し居るか雪未た堅からす、歩々脛を没して進行容易ならさりし、辛くも湯坂に着せり、湯坂は非常の深渓にて谷にまて下たるに十二の坂あり、この十二曲の間は断崖甚た危険なり、行くこと三四丁にして削立の坂あり、一行滑り~~下れり、危険のところ一々枚挙するに遑(いとま)あらす、尚ほ下りて五六丁を行く、切明村に着せり、時に十一時四十分、本日は朝は摂氏の零下二度、昼は零下一度、夕は零下四度なりし、切明村に宿る、村長相馬氏の尽力にて宿舎優待せり、この地に温泉あり夜は一行喜憂の談湧くか如かりき、而して衆皆な福島大尉の元気旺盛にして峻坂と雖も苟くも躊躇せさる健脚に威服せり(二十一日切明村に於て)
写真79 平賀・菊池建雄邸と第31連隊
この記事からは一月二十一日の行軍経過がはっきりわかる。竹舘村長の相馬清次郎が三一連隊の行軍隊の宿泊に際し、宿や食糧を供給していたことが記されている。相馬村長は二十日の夜に小国村にも来て行軍隊をもてなし、このときも道案内をするなど、行軍隊の助けとなっていたことがわかる。
続けて東海記者の「雪中行軍記」を引用しよう。記事は「この稿のつゝき二十二日よりの記事は二十八日よりの本紙に既に続載されたり、尚次項に掲くる所は日記の四日目に続く所なり(一記者)」とある。この記載により一月二十一日の行軍記録は、『東奥日報』一月二十八日付の新聞に記載されていたことがわかる。けれども当該記事は前述したとおり、東奥日報社にも保存紙がない。また前記の「日記の四日目」とは、一月二十三日の行動を指し、その記事は一月二十九日付『東奥日報』記事に掲載されている。この記事は現在、東奥日報社の保存紙にもあり、マイクロフィルムで閲覧が可能である。その記事に続く部分は以下のとおりである。
朝六時半金沢村を出発して三本木村に向ふ、村長初め重なる人々は村端まて一行を見送りたるのみならす村民の四名を赤仗村まて見送らしめたり、甲山の麓を通ること数丁、この辺は左まての積雪にてはあらさりしと雖も猶ほ深きところは一丈余もあり、風強かりしため摂氏零下八度となれり、且つ此の辺は毎日風強き所と見へ吹溜波濤の如く起り樹木は松多し、夫れより戸来山を経て寒林枯木の間を過きて曠野に出て、伍長並に候補生は軍事調を執行せしめて一本松に出て国道を歩みて三本木に着せしは四時二十分にてありき、一行中の伍長斎藤祐吉氏は凍傷にて足脹れて歩行容易ならす、今日出立前に衆勧めて馬橇に載せて五戸に至らしめ五戸より汽車にて帰営せしむることゝとせり
一月二十三日の行軍隊は戸来村の金ヶ沢(現新郷村)から三本木村(現十和田市)に向かっている(記事では「金沢村」とあるが、「金ヶ沢」の誤植)。ここでも行く先々の村で、村長をはじめ村民が行軍隊を歓迎していることがわかる。第三一連隊唯一の負傷者となった伍長は、このときに帰営を命じられている。一〇日間近い行軍のうち、この新聞記事の発見で、行軍二日目(一月二十一日)と、四日目(一月二十三日)、そして八甲田越えを行った最後の三日間(行軍七日目から九日目で、一月二十六日から二十八日)の記事が、明らかになった。行軍初日と三・五・六日目はまだ不明だが、それでも福島中隊長率いる三一連隊の行軍が、少しでも判明したことは大変な意義があろう。
写真80 第31連隊 琵琶台を通過する
(明治35年1月21日)
けれども最後の三日間の記事が、三一連隊だけでなく東海記者をも歴史上から抹殺する憂き目を招くことになろうとは、当時の東海記者もよもや想像しなかっただろう。行軍クライマックスの八甲田山越えで、三一連隊が五連隊兵士と遭遇した記述のことである。