当初、私立銀行の設立や営業について、準拠すべき法規はなかったが、政府は、営業年限が満二〇年を超えた国立銀行は営業を継続する場合、私立銀行に転換しなければならないとし、明治二十三年に銀行条例を制定(同二十六年施行)する。同条例は一一ヵ条からなるもので、その概要は、
(二)銀行新設は資本金額を定め、地方長官を経て大蔵大臣の認可を必要とする。(設立の認可)
(三)銀行は半年ごとに営業報告を大蔵大臣に提出し、財産目録・貸借対照表を公告しなければならない。また、大蔵大臣はその業務および財産状態を検査できる。(業務の監督)
(四)特定の個人とか一企業に対する貸付や割引については、金額を制限し、払込資本金額の一〇分の一を超過してはならない。(貸付・割引の制限)
などであり、その他、営業報告書、資産負債表、設立目論見書、定款の雛型が定められたほか、各銀行から提出すべき報告書の形式も定めた。
また、私立銀行は多くが普通銀行であったが、それ以外に貯蓄銀行もあった。貯蓄銀行は、政府の勤倹貯蓄奨励政策からイギリスの郵便貯蓄銀行の制度が導入され、明治八年に駅逓局貯金制度が制定されてから創設されていく。わが国最初の貯蓄銀行は明治十三年に創設された東京貯蔵銀行であり、以後相次いで全国的に設立されていくが、経営内容に不健全なものが多かったことから、これを規制する必要が生じてきた。そこで政府は、銀行条例と同じ明治二十三年に貯蓄銀行条例を公布(同二十六年施行)し、銀行の健全化を図るのである。
このように、私立銀行に関する銀行条例や貯蓄銀行条例が明治二十六年に施行されると、普通銀行は二七〇行から五四五行に倍増し、貯蓄銀行は二十六年末には二三行であったのが、三十三年末には四三五行に激増するのである(朝倉孝吉『新編日本金融史』日本経済評論社、一九八八年および青森銀行行史編纂室『青森銀行史』青森銀行、一九六八年)。