小学校の改革

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明治十九年(一八八六)八月、弘前各小学校は一斉に尋常小学校と改称した。従来、小学校は初等、中等各二年半、計五年の修業年限となっていたが、今後は尋常科一本となり、その上に高等科(二年~四年)を設けることとされた。学年も、一月に始まり十二月に終わっていたのを改め、八月に始まり、翌年七月に終わることになった(今日の四月一日に始まり翌年三月末に終わるようになったのは、明治二十五年の改正小学校令施行後からである)。
 また、地方の実状によっては、小学校簡易科を設けて、尋常小学校を代用できることにした。簡易小学校の修業年限は三年、授業料は徴収することなく、学校経費は全部町村が支出することと規定した。
 弘前を含む中津軽郡では、東奥義塾公立弘前中学校があったため、改正教育令で設置できるとされていた高等科を設けている小学校はなかった。十八年九月、公立中学校から出た火事で隣接の東奥義塾ともども焼失したが、この際仮校舎を設けず、再建まで休校することになった。しかし、これにより小学校中等科五級以上の者は進学の道が閉ざされることになったため、行政当局は急遽大成小学校へ高等科を設置し、生徒を入学させた。その後すぐ、小学校令の公布があり、今度は「高等科」から「高等小学校」の設置へと制度が変わったため、中津軽郡町村連合会では建設中の公立中学校校舎を転用してこれに当たることとし、二十年一月二十五日、「弘前高等小学校」として開校した。これに伴い、旧制度下の高等科は廃止された。また、公立中学校も旧制度のものであったので、十九年八月の中学校令の公布により全く廃止された(公立弘前中学校については第一章第四節第五項参照)。
 学校経費は授業料で賄うのが本領という文部省の命令で、授業料は、児童一人一ヵ月一二銭という高額となった。一家庭二人以上入学のときは、一人のほかは半額という恩典もなくなった。
 教科は修身、読書、作文、習字、算術、体操で、図画、唱歌は付設してよいとされ、地理、歴史、理科は高等小学校の教科とされた。また、森文部大臣の希望によって、小学校に兵式体操が加えられたのは、森の言う「道具責めの教育」の一環であった。