明治三十年(一八九七)十月二日の和徳小学校日誌に「学校長出校、去月県令ヲ以テ遊廓地ヲ北横町及ビ学校傍ニ指定セラレシ事ニ付、市長ニ其ノ不都合ヲ具申、速カニ変更ニ尽力アリタキ事ヲ申述べ十一時帰校ス」とあるが、これは弘前市はもちろん、県下に論議を呼んだ遊廓地指定のため、和徳小学校が移転を余儀なくされたことの発端である。
二十九年九月、弘前市に第八師団が設置されることになり、第一陣として歩兵第三一聯隊が仙台から移営し、その後、砲兵、騎兵、工兵、輜重(しちょう)兵と続々軍隊がやってきたが、兵隊慰安のため、新しく遊廓地が指定されることになった。
指定された新遊廓地は北横町、北横町野田、田茂木町山王の一帯で、それが和徳小学校のすぐ隣に位置するところから、教育上の大問題として騒がれた。三十年九月二十八日、県令第四〇号として新遊廓地が一方的に指定されると、学校職員はもちろん父兄、学区民、弘前市民はこぞって反対した。もともと弘前の遊廓は北川端町にあったが、二十九年七月に土淵川が大氾濫して、その移転が問題となっていた。たまたま第八師団が設置されることになって、その移転が急がれ、今度の指定となったのである。しかし、地元民に何の相談もなく一方的に決められたから、学区民が激昂したのも無理はなかった。『東奥日報』はじめ各新聞は連日、県知事牧朴真(なおまさ)を攻撃し、弘前教育会、青森県教育会、弘前市会も猛烈な反対運動を展開した。
和徳小学校長今助次郎は肺疾のため永く病臥中だったが、新遊廓地指定に大いに驚き、病軀(く)をおして市長を訪問、変更を要求する一方、知事に上申書を提出した。第三学区会及び弘前教育会の誠意を込めた遊廓指定地変更の願いに対し、知事は変更の意思はないの一点張りで会談は物別れになった。その上、知事は警察力を使って遊廓地指定に反対する運動を弾圧した。
和徳小学校学区会では小学校の移転を策し、これまでの敷地を六〇〇〇円で売却、それを移転費用に充てて当時和徳村俵元の現在地に移った。三十一年九月のことである。しかも驚くべきことに、この移転に対して県も市も一銭の補助金さえ出していない。