メソジスト派(イギリスで興ったキリスト教プロテスタント諸派の一つ)の外国伝道協会は明治十五年(一八八二)、函館に遺愛女学校を開校したが、その第一回の卒業生となった六人は、すべて弘前在住のキリスト教信者の子女ばかりで、第二回の入学生もまた弘前出身の者ばかりであった。そこで、牧師本多庸一は、子女を函館に遊学させている事実から弘前においても容易に募集できると考え、元寺町の弘前教会内に女学校を開設し、キリスト教伝道の一助にしようとした。本多と遺愛女学校校長ミス・ハムプトンの企画で来徳(ライト)女学校と称したが、入学者は五十余人あった。山鹿元次郎が初代校務担当者であったが、創設のころの様子を書いた『弘前女学校歴史』によれば、女学校と称しているものの、その教科内容は尋常小学校程度であったという。
明治二十年になって、来徳女学校は函館遺愛の分校の形をとって弘前遺愛女学校に改称している。弘前遺愛女学校を本格的な女学校にしたいというのが、弘前教会関係者の悲願でもあった。南津軽郡藤崎の酒造家であった長谷川誠三は、女子教育の必要を痛感して、同志七人の連名で「女学校設立趣意書」を書いた。「女子は文明を生む母氏なりとは西哲の確信なり。故に社会の進みたると進まざるとは其の国女子智徳の多寡を以て測ることを得べし」という格調の高い文章が続く。
明治二十二年(一八八九)五月、弘前女学校が弘前市元大工町一番地に開校した。長谷川の呼びかけで集まった寄付金と外国伝道協会からの援助によるものであった。学校の目的は「智徳併進を旨とし女子に高等及普通の教育を授け善良にして有用なる婦人を養成する」ことに置かれた。開学式の様子を『東奥日報』は「予(かね)て本社日報にて広告せし如く、弘前女学校の開校は去る廿五日を以てしたり。校舎は東奥義塾に隣接する箇所にして、頗(すこぶ)る学校の地に適せり。当日は門前に日章旗並に各国旗をおし立てなどして、其体裁も可なりにてありし。式場のことは午後一時を以て始め、終って教師本多テイ子、海野ヨネ子並に工藤儀助氏、伊東重氏の演説並に弘前市長菊池九郎氏の祝辞等あり右了(おわ)りて茶菓子の饗応をなしたりと云ふ」と報道している。