明治三十五年(一九〇二)七月一日、弘前市立弘前幼稚園が、土手町の第一大成尋常小学校敷地内に併設された。これは本県における公立幼稚園の最初であり、独立園舎を持ち、文部省の定めた幼稚園規程に準拠して設置された最初の幼稚園である。
弘前幼稚園設置の経過を同幼稚園沿革は「弘前第二学区の区会議員大高歳行、今村嘉三郎、花田直太郎、野村忠兵衛、福田忠之進、松木彦右衛門、雨森音次郎、小坂重吉、佐藤才八その他有志相寄り、明治三十五年四月一日の弘前市学区区会廃止を記念して幼稚園の設立を計画、当時第一大成尋常小学校長たりし本多末四郎、同訓導石戸谷軍三郎と協議し、第一大成小学校に附設することを決議した。これに対し松木彦右衛門より金参百円を醵(きょ)出する旨の申出あり、さらに区内有志の熱心な賛助ありて、これを市に寄附したところ、ただちに市会にかけられて決議され園舎の新築に着手せり」と述べている。弘前幼稚園は学区民の有志の手で設置され、それを弘前市に寄附したものである。
当時、県内に幼稚園保母の資格を有する者は皆無で、保母には伝手(つて)を求めて、京都市今出川幼稚園勤務の桑原きよを招請し、園長は本多末四郎第一大成尋常小学校長が兼任し、保母助手石戸谷ちよ、園児三五人で開園したが、後に四人が追加入園した。入園料は徴収せず、保育料は月三〇銭であった。当時弘前市内小学校の授業料は金六銭、それと比較すれば保育料は高額というべきであろう。事実、当時の入園児は富裕の家庭のものに限られていた。
開園一年目の弘前幼稚園のことを『青森県学事第三十一年報』(明治三十五年度)は「園長ハ尋常小学校長之ヲ兼務シ保姆及助手壱名アリ幼児ノ保育ニ当リ其成績頗ル良好ナリ」と報じている。