町道場の設置

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明治初年からの社会的・経済的な激動は、士族平民を問わず、すべての者を巻き込んで大きなうねりとなって人々を翻弄した。特に士族は生活の基盤を失い、変転する事態に対応できない者は落伍し、一家離散に追い込まれた。弘前もまた例外ではなかった。若者たちは展望のない無為徒食の日々を送ることにもなった。時の自由民権運動に馳せ参じた者もいたが、総じて無気力な空気が大勢を占めていた。
 こ
れに対する反省と批判は、時代の流れに敏感な若者たちの間に沸き起こり、失われた士気を奮い起こそうとする動きが現れてきた。藩政時代は道場に通い心身の鍛錬にいそしんでいたが、廃絶した道場を復活させ、再建しようとする動きが出てきたのである。
 このようにして町道場が続々と設置されていった。そこは若者たちの集会場となり、武道の鍛錬ばかりか言論活動の場となり、ときには文化活動の中心ともなった。次第に地域住民のコミュニティー・センターとしての機能を兼ね備える結果ともなった。
 道場は地域の連帯によって固く結ばれていたが、それは同時に、階級的な地域を形成しており、藩政時代から上級家臣の居住する地域、中級またはそれ以下の家臣の居住する地域、職人や商人の住む地域と分かれていた。それらの地域は、互いに住民の共同意識が強く、他の地域や住民に対しては排他的で、事あるごとに敵意を燃やすことが多かった。
 明治十年代の後半ごろから、町道場がその設立を競うかのようにして各町内に建てられたのにはこうした事情もあった。地域住民の集会場が団結行動の拠点ともなったのである。さすがに大正期には町道場は衰退し、あるものは姿を変え、またあるものは消滅していったが、このような部内意識は住民の間に依然として残った。「汝(な)、何んだもんだば」という気風が津軽人にあるのはそのせいではないか、と論評する向きもある。
 これらの町道場について、その名称と設置された主な町名を挙げておく。
北辰堂(笹森町)
明治館(鷹匠町)
精交会(一番町)
陽明館(北瓦ヶ町)
城南倶楽部(本町)

 道場によっては、事業計画に従って運営されているものもあり、おおむね十二歳から二十一歳までの子弟が属していた。少年部や成人部と分かれており、先輩が後輩を指導する連帯性もあった。

写真116 町道場城陽会(城南倶楽部改名)の若者たち(明治末年)

 これらの道場は名称や設置場所を変えたりしたが、大正年間まで活動は続いた。当初は武芸や文芸など自治的な親睦団体として存続し、文化活動や教育事業に対する協力にめざましいものがあった。なかには従来の武道修練にはこだわらず、運動部を設けて、当時としては新しいスポーツであった庭球野球を奨励するという一面もあったのである。