伊東は、安政四年(一八五七)、藩の医師の家に生まれ、相良町の私塾黒滝塾を経て東奥義塾の創設とともに入学している。ジョン・イングから西洋のいろいろな学問の手ほどきを受けたばかりでなく、伊東の住まいは元長町で、元大工町にあったイングの住居にきわめて近かったので、毎朝の散歩のお伴をするなどして個人的にも多大な薫陶を受けた。
写真118 伊東重
(第8代弘前市長)
明治八年(一八七五)六月には一三人の学友とともに洗礼を受けており、イングの愛弟子の一人であった。明治天皇の巡幸のときには、青森で珍田捨巳、森可次とともに、御前で英語を暗誦して金五円也を下賜されている。
伊東は、東京大学でモールス(大森貝塚を発見したエドワード・モースのこと)が講じたダーウィンの生物進化論に触れることによって、生存競争や自然淘汰などの法則を学んだ。そしてこの生物学上の法則を人間社会の諸問題にそのまま適用し、ここに「養生哲学」を形成していった。伊東は東大医学部を卒業すると、約束されていた栄進の道をすべてなげうって郷里に帰り、家業を継いだ。
伊東は本業のかたわら医学や衛生思想の普及に努め、幅広い啓蒙活動をしている。彼の『養生新論』を読んだ陸羯南は早速書簡を寄せて激励している。陸は新聞『日本』を創刊しており、伊東とはいわば竹馬の友であった。
写真119 『養生哲学』表紙
(明治30年)
『養生哲学』で伊東は次のように述べている。「生存あれば競争あり、草木昆虫より鳥獣人類に至る迄皆然らざるはなし。吾人人類も生物界の一部分をなす。いずくんぞ競争なきを得んや。(中略)資力、体力、脳力(心力)の三者に過ぎざるべし。今これを総称して人類の競争力と名づ」け、さらには「資力に余裕を生ずる道を養財となづけ、体力に余裕を生ずる道を養体と名づけ、脳力に余裕を生ずる道を養神と名づけ之を総称して養生と名づく」と説いた。
明治三十年(一八九七)一月、士族の有志の少年たちが集まって、早朝、心身の鍛錬をするための早起き会を始めたが、伊東は彼らが弘前城の東門に集合するところから「東門会」と命名し、会員の自治的な約束によって運営されることになった。「東門会」は昭和五十五年に解散したが、一世紀を超えた現在もその精神が形を変えながら引き継がれており、全国的にも希有な存在として知られている。