普選運動の結実

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大正十三年一月七日、清浦内閣が成立した。政友会では高橋是清総裁が野に下ることを宣言したが、床次(とこなみ)竹次郎らは脱党して政友本党を結成、清浦内閣支持となった。大政友会は分裂し、政友会残留一二九人、政友本党一四九人となった。青森県政友会代議士は全員政友本党に走った。残留組の政友会は、憲政会革新倶楽部と護憲三派を結成した。
 政友会本県支部は、十三年二月八日、加藤宇兵衛支部長、竹内清明総務のもとに臨時総会を開いて、支部を挙げて政友本党に入党することとし、各郡市の分所は解散した。しかし、残留派の政友会は、同年十一月二十二日、高橋総裁、横田法相を迎えて再出発の発会式を行った。そして、このときの決議で普通選挙の断行を期すと宣言した。かくて、第五〇回帝国議会は、国民多年の要望たる普選案を大正十四年三月二十九日成立させ、法律第四七号をもって発布した。
 昭和三年二月二十日の第一六回総選挙は第一次普選と言われ、県下の有権者は八万八七九八人、投票数七万六六八票、有権者数は第一回の一六倍と増加した。昭和二年末本県の人口は八四万三三二四人で、そのうち男子は四二万六七六〇人だった。しかし、二十歳以上の女子二〇万人と、二十歳から二十四歳までの男子三万五六三三人は選挙権がなかった。

写真145 最初の普通選挙実施を伝える『東奥日報