ロシア革命による混乱は極東に利害関係をもつ日本にも大きな衝撃を与えた。ウラジオストクをはじめ、ロシア極東方面には多数の日本人居留民が活動しており、日本にとって利害関係が大きく、その権益には魅力的なものがあったからである。そのため居留民保護を目的として海軍当局は艦隊を派遣し、陸戦隊を上陸させて革命軍勢力を牽制した。それとともに日本政府は連合国と共同出兵をはかった。これら艦隊は大湊要港部を拠点としており、青森県はまさに「北の要塞」の役割を果たすことになったのである。
写真161 大湊要港部
写真162 当時のウラジオストク
日本は革命の混乱を利用してロシア極東、とくに沿海州地方に権益を拡大しようとしていた。西欧資本主義国家はロシア社会主義革命に脅威を感じ、革命勢力の拡大を阻止しようと共同出兵を提案してきた。シベリア出兵である。日本は出兵に当たり、七万人に及ぶ破格の人員を動員した。出兵はチェコスロバキア軍救済を名目として実施されたが、日本軍の真意は沿海州方面の権益獲得にほかならなかった。
英仏諸国が撤兵し、大正九年(一九二〇)以降、アメリカ軍もチェコ軍救出の目的を達したとして撤兵を開始した。それにもかかわらず日本軍だけは駐留を続けた。日本の不審な動向は各国から非難を浴びた。ソビエト民衆も日本軍に対し不穏な動きを見せるようになった。そのため日本人居留民の引揚げも開始されるようになった。
「尼港事件」はこうした背景のなかで起きた。大正九年五月、ニコラエフスク(尼港)の日本軍守備隊と居留民が、パルチザンの襲撃を受け全滅するという凄惨な事件である。犠牲者のなかには青森県民もいたため、青森県でも話題となった。尼港事件に対し日本国内では、反革命、反ソ感情を煽(あお)る宣伝も実施されたが、日本の大陸に対する野心がもたらした負の遺産であることに変わりはない。
大正十年(一九二一)八月、連合艦隊による沿海州での演習が実施された。ソビエト近海での演習は、明らかに日本の大陸に対する野心を露呈するものだった。十二月、この演習に第八師団管下の歩兵第一六旅団と工兵第八大隊の一部が派遣された。県当局や愛国婦人会青森県支部などが主体となり、慰問袋が贈呈されるなど、郷土兵の活躍を支える動きが見られた。