第八師団のシベリア派遣

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シベリア出兵が弘前市民にとって最も身近な問題となったのは、やはり第八師団自体が派遣されてからだろう。大正十一年四月十九日、第一一師団と交代するため、第八師団がシベリアに派遣されることになった。郷土師団の派遣、とくに軍都弘前を象徴する第八師団の出征ということで、弘前市民の関心は一気に高まった。市内はもちろん県内各地から激励文が寄せられ、盛大な歓送会が催された。第八師団ロシア革命勢力と戦闘に入ると、『東奥日報』を中心に戦況報告が頻繁に伝えられた。革命勢力といっても、第八師団と直接戦ったのは過激派であり、パルチザンの兵士たちだった。彼らは日本のシベリア出兵の真意を見抜くかのように戦った。
 第八師団管下の兵士だけではないが、シベリア出兵に派遣された兵士たちの多くは、ソビエト軍との戦争という意識が強かった。日本の真意が大陸進出と権益拡大にある以上、ソビエト国内の反日感情を煽り、ソビエト民衆の反感と攻撃を招くのは当然だった。出征した兵士たちも過激派との戦闘に費やされることが多くなり、過激派や民衆に憎悪の目で見られ、攻撃を受けることが多くなった。日本兵にとっても、「尼港事件」での反ソ感情から、シベリア出兵は戦争以外のなにものでもなかった。

写真163 シベリアでの郷土兵

 連合国側からの非難と国内からの反対を受けて、日本政府は大正十一年六月、シベリア撤兵を決定した。出兵を決定した寺内正毅内閣が米騒動で倒れ、後を受けた原敬内閣は、シベリア出兵が何ら戦果を挙げられないと見て撤兵を決定したのである。実際にシベリア出兵は一〇億円の戦費を費やし、三五〇〇人の死者を出した。それだけでなく出兵は欧米各国からの非難をもたらし、日本の孤立化を招いた。シベリア出兵が内外ともに何の利益ももたらさなかったことは論をまたない。
 撤兵が決定するとともに派遣されていた各師団は凱旋を果たした。第八師団が青森に上陸したのは十月十四日であり、二十八日には師団司令部も弘前に帰還した。戦果の全くなかったシベリア出兵だったが、軍都弘前市民をはじめ、県民は軍隊の帰還をねぎらい、歓迎した。弘前駅には凱旋門が設けられ、師団司令部前には市当局をはじめ、市民が数多く動員されて帰還部隊を迎えた。郷土部隊に対する弘前市民の誇りと愛着には大きなものがあったのである。

写真164 凱旋部隊