第五二連隊の廃止で、最も直接的な影響を受けたのは、解散され移転させられた諸連隊に所属していた将兵たちだった。連隊当局ではこれら将兵の配属や就職先などを配慮した措置を講じていた。だが軍縮の風潮と軍人に対する国民の冷ややかな目もあり、数多くの将兵が就職先に困ったことは想像に難くない。
明治四十三年(一九一〇)、陸軍当局は陸軍の予備役・後備役の軍人を会員とする帝国在郷軍人会を設立した。それ以前からも在郷軍人団体は市町村ごとにあったが、陸軍当局は軍隊と国民を結合する必要性を痛感し、これらの諸団体を正式に統一しようとした。その結果、各連隊区に支部を設置し、分会を各市町村に設けることになった。
当初は任意参加だった軍人会も、大正元年(一九一二)には強制加入となり、大正三年には海軍軍人も参加して、陸海共通の組織となった。在郷軍人会は任意団体だったが、現役軍人よりも年輩の軍人たちの集合体だった。年功序列が厳しい軍部組織のなかで、在郷軍人会が一定の圧力団体として存在したことは記憶されてよいだろう。
弘前分会は帝国在郷軍人会の設立時に創立された。大正四年、市内各地の分会を統括するため、帝国在郷軍人会弘前市連合分会規約が制定された。事務所は弘前市役所内に置かれた。このとき、各分会の規約も帝国在郷軍人会規約に基づき改正することになった。在郷軍人会は予備役・後備役の将兵が加入するため、軍縮で予備役・後備役となった軍人たちが多数入会していた。解散した五二連隊や、移転した三一連隊の軍人たちも弘前分会に入会し、地元で一定の活動をしていたのである。
帝国在郷軍人会は第二次山本権兵衛内閣の田中義一陸軍大臣が、社会運動や労働運動など、社会主義思想に対抗するための組織改編を意図した段階で、その歴史的位置づけを変える。大正十四年(一九二五)の規約改正はそれを象徴していた。ロシア革命の影響で日本にも社会主義や共産主義が浸透し、それを恐れた官憲当局が治安警察法や治安維持法を制定したことは有名である。田中陸相が意図した在郷軍人会は、この規約改正で「公安の維持」を前面に打ち出している。在郷軍人会が国体を毀損する思想の絶滅を意図した反革命的軍事組織として位置づけられたことに注意したい。
規約改正は、在郷軍人会が青年訓練所の訓練を幇(ほう)助するとうたっていた。青年訓練所規程に対し、訓練課目中の教練の担当を在郷軍人会が請け負うことになったのである。在郷軍人会は文部省の設定する公教育に対し、強力な指導性をもつ軍事組織としての地位を獲得したことになろう。在郷軍人会の制度改変は、国民生活の隅々まで国体思想を浸透させ、国家全体を軍事化する意味合いを込めた措置だったのである。
これらの措置は、ロシア革命の影響が軍人や市民に相当浸透していたことを物語っていよう。社会主義・共産主義思想をはじめ、デモクラシー思想が、一般市民だけでなく現役将兵や在郷軍人に至るまで、相当に浸透していたことは、官憲当局を驚愕させた。青森連隊区での観閲点呼の成績や徴兵成績を見ても、徴兵制度に対する忌避の態度や士気の緩慢、学力・体力の劣勢などが指摘されている。軍当局はそれらを痛感していた。軍隊制度に対する忌避の感情や軍事国家の建設を理解し得ない国民が多かった。在郷軍人会を通じて軍紀の補強や思想対策の強化を試みようとしたのはそのためである。