大日本野球協会弘前支部第四回大会は十四年六月十四日、新装なった南塘球場において初めて開催された。出場チームは市内六小学校で、第一回戦は朝陽対和徳、時敏対二大、一大対城西が戦ったが、和徳、二大、城西の三校が準決勝戦に進み、抽選で城西が不戦勝で決勝進出、準決勝は和徳と二大が戦い、二大校が快勝、決勝戦は六月十七日、二大と城西で争われた。両校相譲らず息詰まる投手戦を展開したが、城西が一対〇で勝利を得た。
全国少年野球大会の第二次予選は、これまで東北第二次予選として仙台で行われていたが、大正十四年に規則が改正されて北奥羽予選となり、盛岡、秋田、青森、弘前の四市で順次開催されることになった。抽選の結果この年の北奥羽予選は弘前市が大会場と決定し、城西校はそれに出場することになった。十四年七月十二日北奥羽予選は弘前市南塘球場で開催され、出場チームは盛岡市城南小学校、青森市莨町小学校、城西小学校の三チーム。盛岡城南が午前に青森莨町を破り、午後は弘前城西と決勝を争うという不利な条件だったが、これはその時の規則なので致し方なかった。城西校は、第一次予選の決勝戦同様ここでも一対〇のまさに薄氷を踏む勝利であったが、投手戦をものにし、全国大会に出場の資格を得た。優勝決定の瞬間、城西応援者は狂喜乱舞、選手一同の後に続いて石油缶を乱打し、座席に敷いたむしろを即席の旗にして街頭行進に移った。この城西小学校の勝利は、本市小学校の野球チームが他県チームを破った最初の出来事として、まさに記念すべき勝利であった。
全国大会出場の城西小学校野球部の指導監督は同校訓導成田敏衛。市内在府町の人、大正五年三月青森県師範学校卒業。同年四月城西小学校訓導に就任して、昭和十三年まで二二年間勤続、その年退職して満州に渡り、教育行政に当たった。選手は投手 三橋成志、捕手 奈良秀一、一塁 田沢貞助、二塁 川崎健一、三塁 館田義憲、遊撃 山口勇造、左翼 小嶋正夫、中堅 秋田重蔵、右翼 飯塚直、補欠 成田俊太郎、大川徳太郎の一一人である。
写真182 城西小学校野球全国大会チーム
(大正14年)
全国大会は八月五日兵庫県宝塚市の宝塚球場で開かれた。総勢三十数チームが勢揃い、獲得したありったけの優勝旗を押し立てて行進した。城西は奥羽代表の証(あかし)となったアイスクリーム屋の旗のような貧弱なのを一本持っただけなので甚だしく見劣りした。行進が始まると突然スタンドから「ヒロサキ!ヒロサキ!」と黄色い歓声があがった。宝塚歌劇団の女生徒たちの声援で、声援の圧巻であった。この生徒たちは弘前出身で宝塚劇場に勤務する金健二夫妻の呼びかけで応援に馳せ参じたもの。金夫人は歌劇団で生徒たちにピアノを教えていたという。
城西チームの第一回戦の相手は京都市郁文小学校チームで、七日午前対戦、郁文は優勝候補のチームだけに、さすがと思われる動きで、城西が打ったヒットは二本、一点を奪ったが、郁文に七点取られ、七対一で敗れた。
城西小学校の全国大会出場は、本市少年野球関係者に大きな刺激を与え、しかも世は滔々たる野球ブームで、少年野球は異常なほど活況を呈した。翌十五年朝陽小学校が全国大会に出場、翌昭和二年には朝陽、和徳の二校が全国大会に出場、弘前少年野球は黄金時代を迎える。