弘前女学校

655 ~ 656 / 689ページ
私立弘前女学校は、大正四年(一九一五)九月、設立者兼校長であったミス・アレキサンダーに代わって、ミス・ラッセルを校長に迎えることになった。ラッセルは青山女学院院長の現職から赴任したのであるが、その後の十数年間の在任期間にこの学校の基礎が築かれたといってよい。
 この年十月には、弘前で陸軍特別大演習が行われ、弘前女学校の生徒も天皇以下関係者の歓送迎に毎日忙しい日を送ったことは、他の中等学校の生徒と同様であった。十一月十日、大正天皇の即位式を期して、校旗を制定した。白雪をいただいた岩木山を青地に配した校旗であった。この当時、学校のあった坂本町の校舎から仰ぐ岩木山をシンボルマークにしたのである。
 また、かねて申請中の学則改正の件が、県から認可され、四年制になった。県内の女学校に歩調を合わせたのである。ただ、創立以来の特色である英語重視の伝統は続いていた。これは、県立弘前高女が大正四年になってようやく英語を必修として一週に一〇時間を配したのに対し、すでに一六時間を充てていたことでも理解できよう。
 ラッセルが着任したころの弘前女学校は、生徒数わずかに六三人にすぎなかったが、十五年にはついに二〇〇人を超えた。大正六年三月には「高等女学校卒業者と同等以上の学力を有するものと指定」された。これによって、就職・進学・教員検定などの面で、公立高女と全く同等の資格を得たのである。本科の認定をかちとり、実科が認可され、低迷を続けた女学校にとっては明るい展望が開けることになった。なお、大正八年七月には、学校の名称から「私立」を除いて「弘前女学校」と呼ぶことに改められている。
 大正十五年(一九二六)六月には、創立四十年記念祝賀式と高谷記念館開館式が講堂で行われたが、この記念館は、津軽銀行の頭取であった夫の死去を機縁として、その夫人であり、弘前教会の婦人部長であった高谷とく子が遺産の中から一万円を贈ったものを基に、躍進めざましい弘前女学校の一隅に開館したものである。