呑気(のんき)倶楽部

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明治の末ごろの弘前は、まだ封建的で堅苦しい城下町であり、花見で騒ぐということは見られなかった。
 大正二年九月、多少学のある道楽息子や進歩派を自認する若者たちにより、呑気倶楽部が結成された。封建的なものに対する反逆児的な団体であったが、中心的な人物は、その後、花柳界の御用新聞ともいえる『茶太楼新聞』を発刊した古木名(こぎな)均である。弘前芸者後援会ともいうべきグループで、素人芝居をしたり、俳句会を催したり、芸妓たちと一緒に踊りや長唄の稽古をしたりしていたが、大正三年十月には、公娼制度の犠牲者である北横町や寿町の遊女たちを慰め励まそうと「娼妓慰藉(いしゃ)会」を開催して衆目を集め、賛否両論の物議を醸している。
 このころ、の季節になると、津軽各地から大勢の人々が秋田市の千秋公園へと花見に出かけていた。弘前公園では、公園近くの市民や市内の商工会、組合が花見の会を開く程度のものであった。大正五年の『弘前新聞』は、「わが弘前市は花に乏しからず、殊に鷹揚園に至りては実に天下の誇りと云うも憚らず。然れども市民は之を利用し、之を紹介する事に依って、土地発展の素因たる可き外客誘致の資料に供せざるか故に、泥中の金剛石も啻(ただ)ならざるの感あり。」と嘆いている。
 呑気倶楽部では、上野公園や千秋公園の観桜会を何度か視察していた。大正五年、この元気な若者たちは、弘前のを全国に紹介しようと東京から活動写真の技師を呼び、さらに当時の市内の三大商店(角み・久一・角は)に協力を求め、公園内に出店を出してもらうことにした。そして、人を呼び集めるには仮装するに限るということで、会員たちは弁天小僧や切られ与三、安珍・清姫など、めいめい珍装を凝らし、笛、太鼓、三味線などのはやしをつけ、まず市中パレードに繰り出し、そして公園では花見の宴を張り、ドンチャン騒ぎをした。一行の桁(けた)外れの騒ぎに驚きながらも、沿道は見物人の哄笑や歓声で埋まり、市民の話題をさらったのである。
 保守的な町のこととて、一方では不評を買いながらも、呑気倶楽部観桜会はたちまち盛大なものとなり、後の観桜会の先駆けとなった。また、この年、本丸には千数百燭ものアーク灯が点じられ、夜見物もにぎわった。

写真196 観桜会名物の仮装行列