大火と上水道設備の向上

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 昭和の弘前は大火から始まった。昭和二年(一九二七)五月二十九日午後三時、北横町から出火した火は、折からの北西の風に煽(あお)られ、たちまち和徳町、南横町に延焼した。市の消防隊が鎮火に努めたが間に合わず、急を知った第八師団司令部は歩兵第三一連隊をはじめ、弘前市在住の部隊全員に非常出動命令を下した。軍隊まで出動して消火に当たった北横町の大火は、全焼三八二戸、半焼一〇戸、負傷者一八九人を出した。死者こそ出なかったが、罹(り)災者に対する社会の同情が高まり、義捐(えん)金が一万四〇〇〇円も集まった。
 「富田大通りより出火し烈風中七百戸烏有(うゆう)に帰す/魔の火は決死の防火をもの笑ふ如く烈風に乗じ四方に飛び火」と、当時の『弘前新聞』が報じた富田の大火は、昭和三年四月十八日の午前十一時三十分頃起きた。富田町から出火した火は折からの強風に煽られて、松森町、土手町、品川町、代官町など、市内の中心部を焼き尽くした。富田の大火は、全焼六一〇戸、半焼一九戸、死者一人、負傷者四二二人を出す文字どおりの大火となった。
 市内の大半を焼失させた大火は、市民に大きな影響を与えた。当時の家屋はほとんどが木造建てであり、長屋などに代表される家屋の密集地域も多かった。火元からの火が強風に煽られれば、たちまちのうちに飛び火し、広範囲にわたって多数の家屋が焼失するのは当然だった。水道設備が貧弱であり、消火対策が不十分だったことも、大火を引き起こした遠因であった。市民からも防災対策として水道設備の必要性を求める声が高まった。都市構造の問題が叫ばれるようになり、市当局も上水道設備を計画することになった。

写真1 富田の大火

 宮館貞一市長は、昭和六年八月二十日、上水道布設工事に関する諸議案を市会へ提出した。工事施行認可を内務大臣へ申請する件、上水道に関する費用収支のため特別会計を設定する件、布設工事に要する費用を賄うために起債を申請する件等である。起債金額は六〇万円で、昭和六年度から四ヵ年で償還するものとし、償還の財源には国、県の補助金と上水道事業収入を充てるというものであった。
 昭和七年二月十七日、内務大臣から上水道布設の認可が下り、ここに市民待望の水道施設設備が着手されることになった。水源地は中津軽郡駒越村駒越宮本(現岩木町駒越付近)の岩木川沿岸、水田地帯に湧き出す清浄水を集水引用することとした。現在、市の浄水場は市内の樋の口にあり、岩木川から引水しているので、非常に隣接していたことがわかる。大火水道設備を向上させる一つの歴史的契機となったわけである。