岩木川改修運動

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昭和六年大凶作」と「昭和九年大凶作」は、青森県だけでなく東北地方全体に激甚な被害を与えた。だがその「昭和九年大凶作」でも弘前市周辺の米の収穫量は七分作以上あった。やませの猛威にさらされ、三分作ないし皆無作だった太平洋側の上北・下北地域に比べれば、弘前地方は収穫に恵まれていた。けれども「昭和七年水害」と「昭和十年大水害」は、肥沃な津軽平野をもつ弘前市にも大打撃となった。とくに市内を流れる岩木川は何度も大氾濫を起こし、弘前市周辺地域にとって脅威の存在であった。

写真5 昭和10年大水害(新町坂下)

 岩木川の改修は大正七年(一九一八)に起工されて以来の大事業だった。しかし前述した二度の豪雨によって岩木川は大氾濫し、弘前市民を含む河岸の各地域に甚大な被害を与えた。とくに「昭和十年大水害」は青森県の豪雨新記録となり、弘前市だけでなく青森県全体を文字どおり水浸しにする被害を与えた。岩木川河岸の地域住民は、岩木川と支流(平川、山田川など)の改修を痛感し、岩木川改修運動が弘前市をはじめ河岸地域の村々に広がった。堤防の拡充強化、河川合流点の堤防強化、十三湖の逆水予防堤防などが改修工事の焦点となった。
 この運動は期せずして東北振興政策に関する青森県内からの最大・最多数の陳情となった。「昭和六年大凶作」以来、連続災害で疲弊していた青森県民にとって、「昭和十年大水害」は致命的・壊滅的な打撃となり、県当局をはじめ市町村当局や関係団体は、東北振興当局への陳情を重ねていた。岩木川の改修工事は、単に水害防止の対策であるだけでなく、大規模な土木工事を伴う時局匡救(きょうきゅう)の失業対策としても期待されていたのである。今日にいう失業救済的な意味合いをもつ公共事業である。

写真6 岩木川改修工事

 しかし弘前市民や青森県民が叫び続けた岩木川改修問題も、日中戦争以降、太平洋戦争と突き進むなかで、国防国家構築のために東北振興政策が縮小され、結果的には満足な実現を見ずに終わった。岩木川の本格的な改修は戦後に持ち越されることになった。そのために岩木川は戦後も何度か氾濫を起こし、附近に大洪水をもたらした。岩木川の改修が本格的に効果を上げ、大洪水が一応収まったのは、高度成長期前後に計画された目屋ダムが完成してからである。