秩父宮の歩兵第三一連隊赴任

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昭和十年(一九三五)八月十日、秩父宮は歩兵第三一連隊の大隊長として着任し弘前市に赴任した。宮は紺屋町の仮邸に入り、翌年の十二月七日に弘前を離れるまでの一年四ヵ月間、弘前市に滞在した。
 秩父宮と弘前市の関係は、これ以前にも関わりがあった。昭和三年一月十四日、秩父宮大鰐スキー大会に参加するため来県している。その際、弘前駅での奉迎を受けていた。秩父宮スキー大会参加に当たっては、その奉迎に対する実施要綱があった。奉迎者の服装はもちろん、奉迎人員、児童学童の召集から、一般人の奉迎方法など、その実施計画書は相当に綿密なものだったのである。

写真17 大鰐スキー場への行啓

 秩父宮の来弘に対しては、市当局や市民だけでなく、青森県全体が宮を歓迎した。十三日午後七時半からは仙台放送局が「秩父宮殿下奉迎の夕」と題するラジオ放送を行い、講演や音楽を流した。弘前市民はラジオのある家に集まったり、大通りのラジオ拡声器の前で放送に聴き入った。仙台放送局では宮を迎えた弘前市民のために、第一大成小学校に拡声器を備え付けたりもした。放送では知事が県民を代表して奉迎の言葉を述べ、奉迎音楽ではマンドリンの演奏や津軽民謡などが流された。
 しかし皇族を迎える市当局の対応には相当の準備と労苦があった。現在でも皇族を迎える地方の警備や事前準備、行幸啓期間の異常なまでの過剰警備はお馴染みであろう。戦前戦時中の皇族の行幸啓に際しても、非常に念入りな事前準備と厳戒態勢がしかれた。皇族たちの宿泊に対しては市内の宿泊施設を綿密に調べている。食事の検査と手配、行幸啓経路の周辺警備はもちろん、行く先々の目的地周辺を入念に調査し、不審物の摘発も行っている。伝染病患者や病人を隔離したり、浮浪者を退去させたり、通行脇の住居から不審物や不衛生なものを除去させたりなど、過剰ともいえる警備体制は、時に差別的と思われる行為にまで及んだ。皇族を奉迎する市民には、非常に細かい指示も出している。奉迎人数が不足する場合は奉迎人を募るなど、行幸啓のセレモニーを演出するために、膨大な人員と予算と労力を費やさねばならなかった。こうしたセレモニーを演出することが、皇族奉迎に当たり行政の重要な任務となったのである。

写真18 秩父宮夫妻と紺屋町の仮邸