東北振興

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昭和二年(一九二七)五月二十二日、東北振興会が再結成された。これは大正二年(一九一三)七月に渋沢栄一ら中央政財界有志によって組織された東北振興会が、昭和二年三月一日に解散した後を受け、浅野源悟が中心となり、新たに東北各県の政財界有志らが発起人となって結成されたもので、弘前市関係では藤田謙一宮川久一郎桜庭秀輔らが名を連ねることとなった。
 東北振興会は八年十一月に活動の一環として、東北各県および中央の有志者、新聞関係者を招致して実行座談会を開催し、そこで各県からの陳情書を取りまとめ、翌九年二月に貴衆両院に請願書を提出する。青森県からは、指導奨励機関および寒地国立園芸試験場の設置、雪害による地方税の負担軽減、金融における低金利促進、中小商工業者への資金融資、中央資本家の資金投下、八戸港・青森港の修築、十和田国立公園候補区域の拡張、鮫浦・種差海岸の国立公園化、雪害調査支所の設置、時局匡救事業の継続などが提出された。そのほか振興会は東京、大阪で名産品陳列会を開催し、産業視察団の派遣を行って東北産業の興隆に努めた。
 しかし、九年に東北地方を襲った凶作は、六年の大凶作の疲弊が癒えないうちに起こったため、婦女子の身売り欠食児童が急増し、社会問題となった。そこで新聞社が、凶作問題に対する義捐金の募集や東北救済の特集記事、政財界人の東北振興論を特集すると、東北の救済と振興を希求する世論は全国的に広まり、政府は議会や政党の要請を受け、凶作対策に取り組むのである。
表1 県内婦女子身売りの状況
(昭和6~10年)
 昭和6年昭和7年昭和9年昭和10年
 
芸妓346475405264
娼妓295509850256
酌婦6258321,024662
女給919941918
女工2921,1181,427532
その他5591,1032,432868
合計2,1174,9567,0793,500
青森県農地改革史編纂委員会『青森県農地改革史』
農地委員会青森県協議会、1952年より作成
注) 昭和8年の統計は示されていない

 岡田啓介内閣が東北の凶作対策として、九年十二月に東北振興調査会(後の内閣東北局)を設置し、東北振興を国策として取り上げたのはこうした時期であった。
 その後調査会は、同十一年七月に東北振興第一期総合計画を策定し、その答申にもとづき、政府は東北振興の国策会社として仙台市に東北興業株式会社と東北電力株式会社を設立した。そして、東北興業株式会社の投資会社の一つとして、十二年九月、弘前市和徳に弘前油脂工業株式会社が設立された(旧『弘前市史』明治・大正・昭和編、弘前市、一九六四年および中園裕「東北振興」沼田哲編『「東北」の成立と展開』岩田書院、二〇〇二年)。同社は米糠搾油販売事業を行うもので、資本金一〇万円とし、それまで操業していた弘前油脂会社(資本金二万円)の事業を拡張して、現物出資の形で参加させ、それに東北興業株式会社が七万円、その他地元関係者が一万円を出資することで事業が開始された(「昭和十二年六月日本銀行秋田支店金融報告」日本銀行金融研究所所蔵)。