りんご栽培の進展

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昭和初期、りんごの栽培農家は増加し、それとともに生産量は飛躍的に伸びた。大正元年(一九一二)に一万戸を数えたりんご農家は、昭和八年(一九三三)に二万一〇〇〇戸、昭和十六年(一九四一)に三万二〇〇〇戸と三倍に増え、昭和に入ってから急速な増加が見られた。また昭和元年(一九二六)から十七年(一九四二)にかけて栽培面積も三倍に伸びた。この時期に生産量が飛躍的に伸びた理由は、明治末期から大正期にかけて新植された若木が盛果期を迎え、大正期の栽培改善運動の効果(着果量の増大と肥大の強化)が現れたこともあって、大正期平均生産量一〇六万箱に対して昭和元年から同八年の平均生産量は三五〇万箱と約三倍の伸びを示したことによる。
 昭和初期のりんご生産は青森県産(津軽地域が中心)が全国の七割-八割を占め、独占的な地位にあった。価格はほぼ津軽の作況によって決まるため、不作でも価格上昇によってかえって増収になるほどであった。昭和初期のりんご作経営は農業恐慌、冷害凶作による打撃を受けたものの、経営内容は他作物に比べ相対的に順調であった。しかし、りんご価格は相対的に有利であったがゆえに、恐慌からの逃げ道と稲作の凶作からの脱却のためにさらにりんご栽培が拡大するという傾向も見られた。弘前では、東目屋村、高杉村、裾野村、新和村などで部落有地の分割貸付によって新たに植栽が行われた。また、台地の清水村・千年村、沖積地の藤代村等では普通畑が一斉にりんご園に変わっていき、かつて大根、菜種の産地といわれた地域は大きく変貌した。

写真44 昭和初期のりんご園風景

 昭和二年(一九二七)、「りんごの恩人」島善鄰(よしちか)が母校に戻ることになり、県農事試験場園芸部技師の後任として須佐寅三郎(すさとらさぶろう)が赴任した。須佐の赴任以後、昭和四年(一九二九)害虫研究所設置(板柳町)、昭和六年(一九三一)県農事試験場園芸部が県苹果試験場として独立(黒石市)、昭和九年(一九三四)苹果試験場花腐病(はなぐされびょう)試験地開設(清水村)というように、着々と試験場の拡充が行われた。いずれも、土地の提供や開設に要する諸々の費用は有志の寄付によって賄われた。花腐病試験地の土地は外崎嘉七の向陽園内の一町歩が充てられ、庁舎建設費用五〇〇〇円は中津軽郡農会が募金して調達した。
 りんごの検査制度については、大正十五年(一九二六)の暴落を機に、県営にて行うべきであるとの声が高まった。県は、昭和二年十月に初めて新聞紙上にて検査制度の構想を発表した。それは、販売調節機能と品質検査機能を県当局が掌握するというものであった。翌十一月からは県議会でも取り上げられ、生産者側の促進論と移出業者側の反対論が激しくぶつかったが、議論百出の末、昭和三年(一九二八)十二月の本会議において「りんご県営検査案」が通過した。検査制度の詳細は、昭和四年(一九二九)六月から七月にかけて県令、訓令、告示によって整えられ、同年八月一日から実施に移されたが、検査制度は県の政争の具として扱われ、県営検査はわずか一九日間でその幕を閉じた。
 検査制度の廃止後、県は販売改善事業に重点を置いた。その要点は、「苹果検査廃止後ノ販売改善奨励施設ニ就テ」に見るように、産業組合の強化、主要消費地市場への駐在員の派遣、自治検査の補助などである。県営検査に代わって県は自治検査の充実を勧めた。そこで、選果基準を示した苹果準則の発行、共同荷造所設置のための補助金交付が行われた。特に後者は、産業組合を優先して交付し、次に産業組合化を目指す出荷組合に交付した。しかし、出荷組合の反応は低調であった。また、昭和四年、二二の産業組合に対して選果統一のための標準査定会の開始、青森県リンゴ組合連合会主催による選果標準品評会を開催して、選果基準の統一と技術の普及を行った。選果品評会は、その後各郡農会主催で毎年開催され、技術の普及に貢献した。
 昭和七年(一九三二)、青森県に多久安信(たくやすのぶ)知事が赴任した。同知事は前任地長崎で内務部長として枇杷(びわ)の県営検査を実施してきただけに、再び検査制度が県議会の議題に上った。以前の検査制度をめぐる対立同様、生産者を中心とする賛成派と移出業者を中心とする反対派がそれぞれ主張を繰り広げた。県営検査の実施は、昭和八年(一九三三)四月一日からであったが、消費地からの評判がよく、その滑り出しは上々であった。しかし、移出業者の反対は根強く、無検査りんごは日に日に増え、相次いで告発された。知事は事態の収拾に上京し、商工省局長に県支持の姿勢を明示させることにより、妥協案をもって対立は沈静化した。