弘前高女に一三年間勤務した後、退職して独立し、大正十五年(一九二五)山道町の自宅に家事裁縫専修所を開設した。このころは裁縫塾の最も盛んだった時期であった。小山内の専修所は、長年の教職にあった経験を生かして教え方が懇切丁寧で生徒の評判もよく、開設以来、好評を博した。
昭和二年には、山道町の同じ場所に新しい校舎を建設するとともに、県から私立学校としての設立認可を得て、校名も「私立弘前家政女学校」と改めた。『青森県教育史』によれば、設立の目的に「女子ニ須要ナル家事裁縫及ヒ諸種ノ技芸ト学科トヲ授ケ婦徳ノ涵養品性ノ向上ヲ図ルヲ以テ目的トス」とある。
弘前家政女学校は、その後も順調に発展し、昭和四年度には一六五人の生徒を収容して、七学級編成とした。しかも、小学校裁縫科専科正教員無試験検定の認可も得たために、入学希望者も多く、弘前・津軽一円はもとより、県南地方や秋田県、遠くは北海道からも来るようになった。昭和五年には、校名を私立弘前高等家政女学校と改め、七年には師範科卒業生に対しては、無試験検定で小学校家事科本科正教員免許状を与えることができる指定を受けた。
しかし、順風満帆のように見えた弘前高等家政女学校も、実際の経営はそうでもなかったらしい。昭和十四年には、校主が唐牛敏世(当時弘前無尽株式会社社長)に代わっている。唐牛は私財一〇万円を投じて旧富田小学校跡(現弘前文化幼稚園敷地)に新校舎を建設した。新校舎に移った家政女学校は、昭和十六年、生徒定員を増やして一挙に四五〇人、一一クラスとした。昭和十八年には組織替えがあり、財団法人弘前高等家政女学校となった。
写真71 弘前家政女学校校舎(紙漉町 昭和15年以降)
終戦後の新学制が発足するとともに、家政女学校は設備内容を充実させ、二十三年には鷹ヶ岡女子高等学校に名称を改めた。被服科と普通科を置き、選択の仕方では両課程とも履修できるようになっていた。鷹ヶ岡女子高は中学校を併設したり、洋裁専門の鷹ヶ岡服装学院を付設したりした。
創立以来約四〇〇〇人の卒業生を送り出し、柴田やすの「和洋」と並び称され、弘前の女子教育界に大きな足跡を残した「家政」の灯火は、三十余年にして消えることになった。昭和三十一年三月二十日、鷹ヶ岡女子高等学校は、最後の卒業式の後、引き続き閉校式を挙行し、女子中等教育機関としての歴史の幕を閉じたのである。